la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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野菜讃歌。
20080425215212
今日、職場の方からスナックえんどうを頂いた。ご実家の畑で取れたという、つやつやの緑色のだ。

実を言うと、私はどんなプレゼントを貰うより畑の野菜を貰うのが嬉しい。もしかするとダイヤモンドを貰うより嬉しいかもしれない(私は宝石の楽しみ方より野菜の楽しみ方に詳しいから)。

買ってきたアスパラと一緒に塩茹でにして食べたのだけど(粒マスタードを貝柱缶に混ぜてドレッシングにしてみた)、畑の野菜って、どうしてこんなに美味しいんだろう。

スーパーで売ってるのとはまるで比べものにならない。生きてる、という感じの、芯の通った味がする。

あんまり美味しいので、明日、残りを実家に持って帰ろうと思う。

野菜、ブラヴォ。
ご馳走さまでした。
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不確かな僕らの未来/禁煙宣言(全文)
「世界は目を通して我々のなかに入ってくる。だが、それが口まで降りてこなければ、世界を理解したことにはならない。」
(『ムーン・パレス』ポール・オースター)


ようやく禁煙についての御託。

最初「僕らの不確かな未来」と書いてみて、「僕らの」と「不確かな」を入れ替えてみて、「不確かな」という形容が「僕ら」に係るのか「未来」に係るのかが解らなくなって何だか罠に掛かったような気分だ。
不確かなのは、果たして未来だろうか。
それとも、自分自身だろうか。

そもそも煙草を吸うことは私にとって、押しつけられる自己のイメージへの反逆だった。
今でも、私が喫煙者だと知った人の驚く顔を見るのは好きだ。
けれど、それが自分にとって現実逃避になり憂さ晴らしになり、あげく単なる中毒でしかなくなっていることに気づいてしまった昨今、そんなものには100パーセント負の価値しかないじゃないかと、ようやく理解した。
マトリョーシカ、君に歌うべき歌はあるか?
「ジョージ・セルはベートーベンのピアノ協奏曲第二番の演奏におけるグールド自身のアプローチを『女性的』だと批評したが、そのことを彼はけっして許そうとしなかった。」
(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)


羊の皮もかぶり慣れると意外に快適なもので、雨ニモ負ケズ私はベランダ園芸にいそしんでいる。だいぶ茂ってきたタイムを摘んでハーブオイルなんか浸けてみたりしてね。

結局、私はもともと羊的人間であって、今まで狼的要素に憧れるあまりそれを認められずにいただけなのだ。

それでも、時に羊の内側で狼が唸る。うなじの毛を逆立てて牙をむく。

何なんだ、今さら?

羊的パッケージに向けられる軽視や侮蔑、恩着せがましい保護欲や意地の悪い征服欲、時には妬み。それらが私の内部に、澱のように沈んでくる。

羊の皮は狼を縛り、狼の牙は羊を傷つける。私は羊になりきれず、かと言って生来の羊の皮を引き裂くこともできず、ただ歯噛みする。

羊の内側に狼。その中にまた脅えた羊の気配。その中にはまたまた怒り狂った狼。まるで玉葱のように、そうやって剥いでゆくと最後には何も残らないのかもしれない。

イメージと実体とを事もなげに一致させている彼ら/彼女らに、私は微かな羨望を覚える。彼ら/彼女らは少なくとも、現実と対峙する時に自己の立ち位置が揺らぐという不安からは自由でいられるのだろうから。
ショパン? 馬鹿ばかしい。雨だろうと晴れだろうと、私にはゴールドベルク変奏曲の永遠の堂々廻りがふさわしい。私が他のどんな形式の音楽より変奏曲を偏愛するのは、定まらない本質を様々に綴ってみせる、その不毛な美しさ故なのだろう。

…なんて言っちゃ、バッハに失礼なんだろうけど。
親和と不和の日々
「わがために泣くものもないときに/私もまた人のためには嘆くまい」
(ロード・バイロン『チャイルド・ハロルドの告別』)


雨の音がやたらと煩くて、ああ、そうか、と私は思う。止まない雨はないなんて人は言うけど、降らない雨もないんだと。

嫌いだったはずのショパンが無性に聴きたくなって困る。こんな苛立たしい雨音には、あの無駄にセンチメンタルなピアノくらいしか太刀打ちできないだろう。何番だっけか、右手のためらうような数音で始まる短調のノクターン。キラキラと砕け散る琥珀のイメージ。

けれど、ショパンのCDなど一枚も持っていない私は結局、外の雨音を聴き続けるしかない。執拗でヒステリックな、今日のこの雨音を。
再び、放浪する魂は何処へ…
「我は湖(うみ)の子、さすらいの…」
(小口太郎作詞『琵琶湖周航の歌』より)


禁煙は今のところ節煙にとどまり、仕事は相変わらずバタバタ、私生活は精神面で混乱の極み。というわけで、禁煙についての御託はまた後日。

ともあれ湖北の船上から見た琵琶湖の美しいことと言ったらそれはもう圧倒的で、ほとんど呼吸も忘れるくらいで。

あの船のデッキで、私はきっと白痴的な半笑いを浮かべて立ち尽していたのだろう。

たとえば舳先で砕ける水の、ガラスみたいな白い泡。はるか前方を横切る他船の、レース細工みたいな優美な航跡。そして、霧に煙る水平線まで見渡す限り広がる、深緑色のなめらかな水面。空との境目なんてどこにも無くて、まるで自分がどこにも存在してないんじゃないかというような、圧倒的な融解感があって。

海はあまりに茫漠として荒々しくて不安をかきたてるけど、湖には基本的に、神話的な静寂がある。きっと、その沈黙が私を惹き付けるのだろう。もちろん、初めて見た人が決まり文句のように「海かと思った」と言う通り、琵琶湖はばかっ広いし、荒れる時は恐ろしく荒れるんだけども。

県外に引っ越して一年が過ぎた今でも(それにもともと生まれは別のとこだけど)、私は琵琶湖から離れたくないと思う。住民票を頑なに移さずにいるのも、(少しばかり高くても)滋賀に税金を払いたいというのと、滋賀での選挙権を持っていたいというのがあるからで、それはつまり、自分がいずれは滋賀に戻るのだという意識が、どこかにあるということで。

故郷というものが(基本的に放浪体質の)私にあるとしたら、それは間違いなく琵琶湖だろう。もしかすると、私は葡萄畑よりもいっそう、琵琶湖に憧れているのかもしれない。
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