la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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会計報告(誰に?)
「下戸の建てたる蔵もなし」
(たぶん江戸時代の、酒飲みの名言)

今月はひどい赤字決算。部屋の更新料(一年ごと、家賃ひと月ぶん)が大きいと言えば大きいのだけど。

もともとお金の管理にはルーズで、実家暮らしをしていた時はかなり際限なく浪費していた。
今は家計簿をきっちりつけていて(自作のエクセルの表で、日々使ったお金を項目ごとに入力していくと残高が自動計算されて、月末には月間の総支出と貯蓄残高が一目で解る恐怖のファイル)、なかなか自分の粘着質な一面が伺い知れたりもして楽しいのだけど、結局いつも月末にため息を吐くだけに終わっていて貯金になんか結び付きやしないのが現実だ。

もちろん私が一番知りたかったのは、自分が果たして月に幾ら飲み潰しているのか、ということで、酒代が「ワイン」と「それ以外」に分かれている粘着質な家計簿を振り返って見たところ、ワイン代が月にほぼ一万、それ以外の酒類が五千。
うわあ。肝臓が腐る。

これじゃ貯金は愚か、日々の生活すら脅かされるわけだ。

そこで今回の引用。
その昔、人々が酒で身代を潰す呑み助をからかって「上戸かわいや、丸はだか」と揶揄したのへ、呑み助の方では「下戸の建てたる蔵もなし」(酒を飲まないからと言って金持ちになったという話は聞いたことがない)とやり返したのだそうだ。

ふうむ。
そこで私は、三月は勉強会のため以外にワインは買わない、と決意した。目標は酒代を月五千円に抑えること…あり得ない気はするけど(そして劣悪な蒸留酒に走ってしまいそうな不安もあるけど)、ま、理想は高く持てってことで。

さて、三月末にはどうなってることやら。
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再び、迷える子羊たちの輪舞
「おれだって迷子だぜ。おれは迷子をやめる気なんかさらさらねえな。」
(『オール・トゥモロウズ・パーティーズ』ウィリアム・ギブスン)


この小説の邦題は『フューチャーマチック』で、しかもその邦題がギブスン自身の提案だったということで、おまけに翻訳者が私の敬愛する浅倉久志(大御所!)なので、本来は出典は素直に『フューチャーマチック』と書くべきなのだけど、原題の『オール・トゥモロウズ・パーティーズ』(“明日からのパーティーというパーティ-ぜんぶ”)という言葉が何となく好きなので(ルー・リードの歌は知らないけれど)、原題の片仮名表記にしておく。

そのサイバーパンク小説の一場面。浮浪者の少年が道端で、二人連れの女性に頼まれて車の番をしている。傍を通りかかった男が少年に一人の女性の写真を見せ、この女を見なかったか、と訊ねる。その写真の女性がたったいま自分に車の番を頼んだ二人連れの一方だということに気づきながら、少年は首を横に振る…。

「行方不明だ。わかるか? 彼女を助けたいんだよ。迷子を」。男は食い下がるが、少年は知らない振りを決め込む。その理由が、「おれは迷子をやめる気なんかさらさらねえ」なのだ。

なるほど、迷子だからといって、差し伸べられる手には絶対に縋らなきゃいけないという法はないのだ。私を捕らえてどこかへ導こうとする手は、今のところ、ただ私を煩わせるだけだ。

私も一種の迷子ではあるけれど、もちろん、「迷子をやめる気なんかさらさらねえ」。
見果てぬ夢の果てたあと
「てめえの面が歪んでるのに、鏡を責めて何になる」
(ニコライ・ゴーゴリ、『検察官』の題辞/新潮社『世界文学全集40』「人と作品」より孫引き)


この『世界文学全集40』は、これ一冊でロシアの代表的作家を網羅できる実に素晴らしい本で(プーシキン、ゴーゴリ、ゴーリキー、レールモントフ、ツルゲーネフ、チェーホフetc。ちなみにチェーホフが三篇入ってるのを二篇にして代わりにドストエフスキーの『白夜』か『貧しき人々』を入れてくれれば完璧だったかも)、おまけにこの手の全集はブックオフへ行くと一冊105円という冒涜的な値段でバラ売りされている。本当に中身の価値を思うと「冒涜的」としか言いようのない扱いで、微かな憤りを覚えはするものの自己本位に言えばそれが105円であっさり手に入るのがありがたいことは否めず。

ただしブックオフには度々罠が仕掛けられていて、リルケだと思って買うとリルケなのは外箱だけで中身はハンス・カロッサの『美しき惑いの年』だったりする。シューマンのヴァイオリン・ソナタのケースに意味不明のテクノポップのCDが入っていたこともある。さすがにCDは次の日にカウンターで訴えて無事シューマン(もちろん意味不明のテクノポップのケースに入れられていた)と交換して貰ったけど、たかが105円で文句を言うのも大人げないのでカロッサは未だにうちの本棚に(リルケの『マルテの手記』の紙箱に入ったまま)並んでいる。『マルテの手記』はその後やっぱりブックオフで買い直して、まあ『美しき惑いの年』もそのうち読むだろうと思っていたのだけど、今のところ、大いに惑っているらしいハンス少年(青年?)の思春期に興味が湧いたことはなく。

それはさておき、この『世界文学全集40』はもう一年以上前に買ったものなのだけど、最後に入っているマクシム・ゴーリキーの『どん底』だけを私は読まずにいた。冗談でも何でもなく、いつか自分が「どん底」的気分になった時に読もうと思って取っておいたのだ(私は肺病やみでも癲癇持ちでも夢遊病の女でもなく、毎日ご飯が食べられるので、別に今が人生の「どん底」だとは思っていない。ただ就労意欲だけが「どん底」で、何となく、読むなら今だなと)。
極私的ヌーベルキュイジーヌ
20080215192203

ホタルイカの玉子とじ丼。

私の作る料理の中で、人には勧められないものno.1。人によってはコレはゲテモノの類に入るでしょう。

しかし、ボイルして売ってるホタルイカを冷たいまま食すことに無根拠な躊躇いを覚える私は、ダシで煮沸消毒(?)して玉子でとじて白ご飯の上にぶっかけるという荒業に出たのでして。
旨いんですよ。セリと青ねぎ入れて、熱々をかっ込むとね。まあ人には勧めませんけどね。

まともな料理をする気力も体力もない時には、こういう前衛料理は良いものです。自暴自棄に拍車をかけるためにもね。


いや、旨いんですよ、ホントに。
ロデオドライブデイズ
「愛の応答(いらえ)を求めての呼びかけではない、もはやそのような呼びかけではなく、…」
(ライナー・マリア・リルケ『ドゥイノの悲歌』)



振り落とされないようしがみつくのが精一杯です。冬の寒さに青ざめた、その遠慮がちな笑顔に完全ノックアウトです。一秒でも長く、私はあなたを見つめていたい。なんてバカなことを言ってないでキリキリ働け私(あ、でも今日は仕事終わってるし明日は休みだ)。

それにしても、不具合を隠蔽する機械なんて暴れ馬より手に負えません。「YES」という無条件降伏の一言。それでいて、あなたが従うのは私の命令ではなく行き場を失った三日前のメッセージで(この上なく従順な天邪鬼!)。

でもだからこそ、私はあなたが好きです。すべてを見透かした風な饒舌な口説き文句よりも、あなたの一瞬の躊躇いが好きです。諦めに似たその沈黙が好きです。たとえその沈黙ゆえに、すべての罪を私が背負う羽目になろうとも。

あなたは私の太陽です。私の生きる歓びです。恋ではなく、まして愛でもないけれど、確かに一条の光ではあるのです。

はぁ。なんだこの戯言は。いや、深い意味は全然ありません(たぶん)。ただ酔っぱらって自暴自棄になってるだけで。初めてリルケと向き合えそうな今のこの感覚は、苦しみの代価としてはなかなか上等だ。

手始めに『ドゥイノの悲歌』から再読しよう。今夜は夜更かし覚悟で。

追記。
99.9%フィクションの残りの0.1%を、99.9%この文章を読むことのないあなたに(この冬の名残として)。

引き算間違ってませんよね?
たとえ明日が来なくても
「失望を怒りに、怒りを嫌悪に、嫌悪を侮蔑に変えるのは容易いことだ。日常の人間関係において、大抵の悪感情はこの段階のいずれかに当てはまる。」
(オリヴィエ・ペサック『反フロイト式精神分析』)


統合失調症。というのは少し前まで精神分裂病と呼ばれていた病気で、この「統合失調」という言葉を初めて聞いた時に私は精神そのものの奇跡的なパラダイム転換だと思って感動したのだけれど、後になって知ったところではどうやらそれは病理の再定義というよりは単に言葉のイメージに配慮しての“呼び変え”だったらしい。精神分裂病と呼ぶと精神がまるごとダメになっているように思えて治る気がしないというのだ。

とは言え、「精神分裂病」という言葉が「本来ひとつのまとまりであるべきものが、バラバラになってしまった状態」を表しているのに比べて、「統合失調症」というのは「本来バラバラであるものをひとつにまとめておく機能が、うまくはたらいていない状態」という意味になっていて、そこでは「精神」はバラバラなものが寄り集まってできていて何かの機能が不断にはたらいてそれをひとつにまとめているのだ、ということになる。

自律神経というものがまともに自己を律してくれた試しのない私には、自分の「統合」機能がうまくはたらいているのかが甚だ疑わしい。たとえば統合失調症の症状として挙げられる「自明性の喪失」ということ。私にとってはこの世界に自明のことなどひとつも存在していなくて、挨拶がうまくできなかったり、人の感情が理解できずにおろおろしたり、質問に的外れな答えを返したりする。それから半年に一度くらい、災害や事故や火事や犯罪や戦争に心底怯える夜がある。この「今にも世界が終わるんじゃないか」というような根拠のない恐怖心を抱くのも統合失調症の典型的な症状らしくて、そうなると私は統合失調症なのじゃないかと不安になってくるのだけれど、幸い統合失調症の人は夢を見ないのだそうで、しょっちゅう悪夢に悩まされる私はどうやらこの病名には当てはまらないらしい。

ただ発達障害の一種ではあるのだろうということは何となく理解していて(程度の差こそあれ発達障害というのは人類の半数くらいは何らかの形で持っているものだとも思うけれど)、私は私のささやかな欠陥がもたらすささやかな苦しみを、安定剤を舌の裏側でゆっくり溶かしながらその薄甘さと共に味わい続けてきた。だから自己の苦しみには、私は慣れている。

けれど、他者の苦しみや剥き出しの感情は駄目だ。それは剣と言うより鋭角に割れたガラスの破片のイメージで私の鳩尾を突き刺す。突き刺された私は口を開けたまま、いつかの警句も忘れてだらだらと際限なく血を流し、スプラッタ映画よろしく内臓がはみだしても手で押さえようとすらしない(どう押さえたら良いのかが解らないのだ)。

ええい、構うもんか。立派なゾンビになってやる。
やや分裂気味の今宵、私は偽悪的に笑ってみる。
心配なのは私のことじゃないのだ。
統合失調だろうと鬱病だろうと発達障害だろうと、好きでなってるわけじゃないんだということを、皆もうちょっと理解すべきなのじゃないだろうか。そして、周囲の対応によってそれらが悪化する恐れもあるのだということを、憂慮すべきじゃないのだろうか。

明日のことが、とても不安だ。
たとえ明日が来ないとしても。
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