la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
すべての善きものたち
赤い実。風に波立つ水田。羽虫を追う蝙蝠の乱舞。気怠いメランコリイを含んだ晩夏の夕空。その空を震わせる蜩の声(胸騒ぎのするBフラット)。遊ぶ子ども。物問いたげにこちらを見上げるむく犬。路地に洩れる夕餉の匂い。吹き抜ける一陣の風。

そして、それらすべての善きものたちが倦んだ心になお呼び起こす…生きる歓び。

秋は悲しみの季節。蜩の声そのままに、哀愁を歌う季節だ。けれどもまた、月の満ちる豊穣の季節でもあるということを、ようやく私は思い出した。

vendange(ヴァンダンジュ),何て美しく心を満たす響きだろう。ワインを介して知った中で私が最も愛するこの言葉は、どんな高級ワインの名前でもなく、「収穫」を意味するフランス語だ。
家への道を歩きながら、私は生真面目に空を仰ぐ。今こそ夏の倦怠を振り捨て、澄んだ目で世界を見つめる時だ。祈りではなく、希望でもなく、ただ、ひとつの意志を取り戻すこと。

それはすなわち、絶望との決別だ。
スポンサーサイト
生き延びるためのアンチ・ラカン
「あなたの欲望は誰のもの?」
(『生き延びるためのラカン』斎藤環)


ラカンが何と言おうと、私の欲望は私のもの。
とうに解ってたはずだ。
フロイトに近づくと、ろくなことはないんだって。

斎藤環は精神科医で、サブカル系の研究本をたくさん出している(『戦闘美少女の精神分析』とか)。ウィキペディアに「東浩紀と親密な交流がありながら決裂していないという珍しい評論家」と書かれていて笑える。私はあんまりサブカルチャーには興味がないので(一応ひきこもり志望だけど私が引きこもってもサブカルチャーには浸からない。一応「押井守が『スカイ・クロラ』を・・・」とかいう話題にもついて行けるけど観に行きたいとは思わない)、本来なら斎藤環の本なんて読まない。おまけに私はフロイトが大嫌いなので、本来ならフロイト派の精神科医の著書を手に取ることなんてない。だから、くどいようだけど本来なら、フロイトの弟子であるラカンを読もうなんて思わない。

だけど、保坂和志の『アウトブリード』に、生活の知恵のメモ書きのようなニュアンスで、「ラカンを読むこと。」と書いてあったのが、ずっと頭の片隅に残っていた。そして、あるとき新聞広告で目にした『生き延びるためのラカン』というタイトルとその煽り文句(「心の闇なんて存在しない!」)。

なるほどラカンが生き延びるのに有用ならば、読まない訳には行かない。まして著者が「知的に早熟な中学生ならすらすら読める」と言うならば。
饒舌なるデカダンスの行方
「チーズの熟成は人間が賢くなり成熟するのと似ていなくもない  いずれの場合も、その過程を経るにつれ認識もしくは受容せざるをえないのが、生とは死亡率百パーセントの不治の病  緩慢なる死であるということです。」
(『最後の晩餐の作り方』ジョン・ランチェスター)


今回は予定を変更して、まだ読了していない本の引用。
物語がどうこうというよりその「博覧強記ぶり」が絶賛されたという、料理評論家ランチェスターの処女長編。苦手な文体じゃないのだけど、サスペンスやミステリが肌に合わないせいでうまく読み進められずにいる(ちなみに私はクリスティの『そして誰もいなくなった』をホラー小説だと思っていた。何分ローティーンの頃のことなのでご勘弁を)。

さて、予定変更の理由は、21日の午後に仕事を休んでほぼ一年ぶりに参加した「ワイン塾」。宝塚の近くで月イチ開催されている勉強会、というか三時間ほどで三十種前後のワインを抜栓する強攻テイスティング会。口に含むだけで飲み込まないのでさして酔っ払いはしないけど、ものの30分で嗅覚も味覚も疲れ果てててしまうのでまともにワインの個性と向き合えるのは最初の十種類程度。

昨日は赤白泡の計三十二種類で、最初にワイン名を明記したリストが配られるのだけど、私は今回ちょっと気合を入れて紙を裏返したまま半ブラインドで(といっても先に「次シャルドネ4種類行きます~」と告げられたり、ワインは自分で注ぐのでどうやってもラベルが目に入ったり、そうでなくてもボトルの形から大体の産地は察せられたりするのだけど)挑んでみた。古びた材木と干草、荒れた牧草地や汚れた羊を思わせるギシギシの強烈な白ワインがあって、感想を求められても「何じゃこら」としか言いようのない味わいだったのだけど(走り書きしたのは「知らない土地の知らないワイン。はじめまして。干草、石ころ、愛想は良くない」)、実はそれがオー・ブリオン(白)のセカンドだったりして魂消た。どうやったらソーヴィニヨン・ブランからあんな味のワインができるんだ?? ところがいま調べたところでは、ネットでの評と私が受けた印象とが掛け離れている。どうしたことか…。
そう。この「ワイン塾」、色々なワインを比較試飲できる貴重な機会、ではあるのだけど。

あまりにも慌しく(一種類のワインにかけられる時間はほんの2~3分)、しょっちゅうパンを勧められたり周囲とのコミュニケーションを求められたりして(「ワイン関係のお仕事なんですか?」「いえ~、ただの酒屋勤めです~」)、集中できない。あの白ワインの正体を見極めるには、たぶんたっぷり一時間はかかるだろう。

で、結論としては。
ワインは自分でじっくり選んで買ってきて、おうちで好きな料理を作って、それが面倒なら好きなチーズとオリーヴと美味しいパンだけ用意して、気兼ねしないでいい相手と、或いは一人で、ゆっくり味わうのが良いね。
ブラインドができないとか、一種類しか飲めないとか、そういうデメリットは確かにあるけど。でもその方が、ワインに対してちゃんと向き合える。抜栓直後からの変化も感じられるし、何より、そうやって飲んだワインは忘れない(これまでワイン塾でテイスティングした百種類超のワインのうち、今も覚えてるのなんて十種類にも満たない)。
まあプロのバイヤーなら、三分のテイスティングでポテンシャルを見極めるんだろうけどね。

私は何より、エゴイスティックにワインを愛する一個人であるので。
エキサイティング☆ブレインウェイヴ
「ボルドーといえども不滅ではないのです。」
(麻井宇介『ワインづくりの思想』より、アンドレ・リュルトンの言葉)


銘醸地神話を超えて、という副題を持つこの本は、私にとって久しぶりに出会う「エキサイティング」な本だった。

エキサイティング?
そう、本なんて所詮、紙とインクの堆積でしかない。けれど私にとって、テーマパークのアトラクションのごとき受動的なイベントよりも(赤ん坊の頭上でくるくるしてるモビールと変わんないじゃないか。目を覚ませ、「夢と魔法の国」とやらで我々は露骨に馬鹿扱いされているのだ)、一冊の本の方がずっとエキサイティングだ。

…何て安上がりな。

もとい。
日本という新興産地でどうワインを造るのか。ボルドーやブルゴーニュといった「銘醸地」でしか素晴らしいワインは造れない、という「神話」から、どう脱却するのか。土壌や気候、ブドウ品種の選別、様々な難題にぶつかりながら、そうまでして日本でワインを造る意味とは何なのか。

語られるエピソードのほとんどは海外のワイン産地での見聞だけれど、著者の意識は常に日本にある。何かにつけて「日本」にこだわるプチ・ナショナリズム的な言動に否定的な私にも、「新興産地でのワイン造り」として普遍的に語られるその言葉は、苦もなく躊躇もなく飲み込める。

この人は思想を、小説のような言葉で描くのだ。

劇場サポーターレポートのための原稿、その3
「私はかもめ、いや、そうじゃない」
(『かもめ』アントン・チェーホフ)


劇場サポーターの研修ということで、京都の劇団「地点」の『かもめ』を観せて貰いました。演劇は普段あまり観ない私が行ったのはもちろん、チェーホフが好きだから、なのだけど…。

詳しくは「続きを読む」以降をご覧ください。
Designed by aykm.