la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
生活と思想の論争、私家版
「もう少し普通の人間らしく歩くがいい。」
(『三四郎』夏目漱石)

引用したのは夏目漱石の『三四郎』で、主人公がぶらぶらやってくる姿を目にした友人が笑いながら口にする言葉だ。その台詞は「まるで浪漫的アイロニーだ。」と続く。「ロマンチック・アイロニー」というのは集英社文庫版の脚注によると「ドイツのシュレーゲルなどが唱えた、芸術上の創作・批評における精神的自由」のことで、漱石に言わせると「何でも天才というものは、目的も努力もなく、終日ぶらぶら ぶらついていなくっては駄目だという説」らしい。

若かりし頃は「人はどこから来てどこへ行くのか」とか「人は何のために生きるのか」とか無駄に考えた挙句ハイデガーを読もうとして、結局一文もまともに読めず何ひとつ理解できなかったりした。今でもきっとハイデガーには太刀打ちできないだろうけど、書物というものにあれだけこっぴどく撥ね付けられたのは初めての経験で、私はその偉大なる「知」の呪文を前に、しばらく茫然と立ち尽くしていたのを覚えている。

思うに、当時の私がぶつかったのは単に「知のフィールド」のレベルの高さ、というだけのものではなくて、哲学の本質の一端である「不毛さ」でもあったのだろう。哲学は人生を解き明かすものでもなければ、決して人生を生きやすくするものでもない。むしろ生きることの困難をより際立たせる傾向のある厄介な学問だ。私が哲学と訣別したのはその性質のためなのだけど、そのくせ、私は未だに「知のフィールド」の外縁をうろうろしながら生きている。

それでも、私が求めているのは「知のフィールド」の中に立つことではない。軸足を「生活」にしっかり置いて、そのうえで「思想」を語ることだ。

過去も現在も「思想家」とか「哲学者」という地位にいるのがほとんど男性ばかりだ、という事実は、単に世間が女性に「考える資格」を認めていない、ということと合わせて、女性が自分自身と男性諸氏との「生活」をずっと担ってきたことに起因すると思う。つまり、「そんなことばかり考えてられるのは、奥さんがあんたのパンツを洗ってくれるからでしょ」ということ。その「生活」を担う女性の思想はと言えば、せいぜいが「おばあちゃんの智恵袋」くらいなものだと思われているのだ。

もちろん「生活」が「思想」を遠ざけてしまうことがあるのは事実だけれど、「生活」に根ざさない思想は、見ていてあまりに空虚だ。どんなに頭が良くても仕事ができても、自分の食べるものひとつ自分では世話できない人間って、とても不自然な、破綻しやすい生きものだと私は思う。

世界というものは実は突き詰めると必ず不可知論に行き着くのだけど、その中でひとつだけ確かなのは「私はおなかが減る」ということだ。そして、「怪我をすれば痛い」ということだ。つまりそれが唯一の、明白な真実なのだ。
もしそこに「思想」が存在しないのならば、日常の雑事の繰り返しがこんなにも無闇に幸福であるはずがない。

私は今ようやく、生きるために生きることを始めた。
「普通の人間らしく」歩く、とは、つまりそういうことなのだと思う。
たとえどこから来てどこへ行くのだろうと、私は今ここにいる(そして常にそうだった)。たとえ何のためだろうと、私は生きている(そして常にそうだった)。

ブラヴォ、生活。ブラヴィッシモ。
[生活と思想の論争、私家版]の続きを読む
スポンサーサイト
ごあいさつ
20070418212009
今日やっと引っ越しが完了して新しい部屋にいる。ユニットバスなので何だか海外旅行に来ている感じ。さっきトイレが水漏れしてることに気づいて怯んだけど、概ね快適。

しばらく更新が滞るかもしれませんが、皆様ご心配なく! これからもよろしくお願いします。

追記、画像は新居の初ごはん。左上はコンビニの、とびきり不味いおにぎり。友達に貰った炊飯器の試運転をするはずが、荷ほどきに夢中になってお米とぐのを忘れてた。右上は淡麗グリーンラベル。タンブラーもビアグラスもないので、ワイングラスとの二者択一で湯呑み茶碗に。
再び、戦場から遠く離れて
「それから、きみたちは爆撃の心配はしなくてよい。ドレスデンは非武装都市だ。」
(『スローターハウス5』カート・ヴォネガット・ジュニア)


今日、新聞にヴォネガットの訃報が載った。

カート・ヴォネガット。ドイツ軍の捕虜として囚われていたドレスデンで、連合国による無差別爆撃を経験した作家。連合国側が1963年までひた隠しにしていたという“ドレスデン爆撃”での死者は“控え目な推計”で十三万五千人、そして、そのほとんどが非戦闘員だったという。

インタビューでこの爆撃について質問されたとき、彼はただ「覚えていない」とだけ答えたらしい。そうして、時間軸を切り刻み、虚実を綯い交ぜにし、宇宙人やタイムスリップといった過剰なスパイスを加え、その上からアイロニーとジョークと下ネタをごちゃ混ぜにしたソースをたっぷりかけて、その戦争をほとんどスラップスティックに近いSF小説に仕立てた。

「しかしヴォネガットには、このようなかたちでしか自分の体験を語る方法はなかったのだ。」(『スローターハウス5』訳者あとがき、伊藤典夫)

深夜のテレビに映るスペクタクルとしての戦争ではなく、最新鋭の戦闘機に乗って難民を追い散らすゲームとしての戦争でもなく、ヴォネガットは空から機銃掃射を浴びる生々しい恐怖としての戦争を知っていた。

SLAUGHTERHOUSEとは、「屠殺場」の意味だ。
それは「戦う」戦争ではなく「虐殺される」戦争なのだ。そして、戦争というのは“そういうものだ(so it goes)” ということを、私たちは的確に想像しなければならない。

しばし、黙祷。
戦場から遠く離れて
「歴史を知ることは世界で生きていくためのマナーです。」
(『ニッポン・サバイバル』姜尚中)


 姜尚中(カン・サンジュン)。今いちばん好きな有名人。聡明で真摯、敏感で厳しい。おそらく、私が「かっこいい」という言葉を真顔で冠する唯一の有名人だ。朝日新聞に載る文章やインタビューに共感するところが多くて、前々から気になっていた。難解そうな著書が多いので敬遠していたのだけど、気がつくと何やら母親が夢中になっていて、買ってきた本を貸し与えてくれたのだ。それが著者の自伝『在日』と、この『ニッポン・サバイバル』の二冊。後者はインターネット上で連載されていたらしいエッセイで、二冊ともかなり平易な話し言葉で書かれているのでとても読みやすく、吸収しやすい。

著者の姜尚中は熊本生まれの在日コリアン。早稲田卒の現職東大教授だ。だから頭が切れるのは当然なのだけど、こういう人がこういう思想を強固に持って右派・保守派を相手に論陣を張ってくれるというのは、私のような「なんちゃって左派」にとってものすごく心強い。この人がいる限り日本は大丈夫なんじゃないか、とまで思いそうになる。おまけに、雰囲気のあるストイックな風貌と渋い語り口で女性ファンが増えているというので、そういう意味でも貴重な存在だと思う。これまで選挙なんて行ったことない、という人が、たとえルックスからだろうとこういう人の言葉に耳を傾けて投票所まで足を運ぶとしたら、それはとても素晴らしいことだ。

もちろん私の言う「かっこいい」にも少々浮ついた気持ちが含まれていて、というのも、この人は50歳になってから運転免許を取って、ドライブしながらカザルスのチェロを聴いてたりするんだ(もちろんバッハの無伴奏。これはむしろ、カタカナの「カッコイイ」だけどね)。

さて、真面目な話、この『ニッポン・サバイバル』の章立てを幾つか紹介すると、
 「お金」を持っている人が勝ちですか?
 「仕事」は私たちを幸せにしてくれますか?
 どうしたらいい「友人関係」が作れますか?
という、一見とても私的で主観的に思えるコンテンツから始まって、後半は、
 なぜ今「反日」感情が高まっているの?
 今なぜ世界中で「紛争」が起こっているの?
と、一気に読者をパブリックな領域へと引っ張ってゆく。そして最後は、
 どうしたら「平和」を守れますか?
 どうしたら「幸せ」になれますか?
ときてお終いになるのだけど、これは本屋さんで大量に平積みされている類の「人生のハウ・トゥ本」とは明らかに一線を画する、非常に重要な本だ。

姜尚中はこの本で、どうすれば君たちの目をパブリック(公)=ポリティクス(政治)に向けさせることができるか、ということを試みている。

そう、私たちはあまりにも「私」ばかり見つめすぎているのだ。思考は内へ内へと向かい、私的な幸福に拘り、趣味や一時的な消費行動に走り、そこに自足して「公」=社会を見ない。

「他者に関心を持たないで、自分の幸せを社会や世界と切り離して考えること自体が、じつはものすごく非現実的です。」
「パブリックな価値について目利きする能力や感受性。それこそが本当の知性なのではないかと思っています。」

姜尚中はそう語る。

「大切なのは大きく“ブレない”ことです。感情の振幅が大きいのはとても危険なことです。」

私は少なからぬ自戒を込めてこの本を読み終えた。通勤電車の中で、行きと帰りのほんの一時間足らずの間に(この本を母親から受け取ったのは昨夜の8時過ぎだった)。

気の持ちかた次第で世界は良くなるという奇妙な言論を、姜尚中は「ココロ主義」と呼んで批判する。私が漠然と、気持ち悪いなあ、と思っていたその気持ち悪さの輪郭を、的確な言葉で描き出している。
憲法九条をどう考えるべきかという複雑な問題を、姜尚中は「憲法というのは到達目標であり、理念なのです」と説く。私が漠然と、何かおかしいなあ、と思っていたその違和感の輪郭を、的確な言葉で描き出している。

九条が時代に合わないから改憲しよう、という風潮の「おかしさ」が、その一言でくっきりと浮かび上がる。

本当に凄い。

このブログを見ている人で、今の世の中に少しでも疑問や不安を持っている人は、まずこの『ニッポン・サバイバル』を読んでみてほしい。姜尚中がすごく私の好みのタイプの男性だ、ということはこの際どうでも良くて、とにかく、この本は私に、マコンドの雨で溺死しかかってる場合じゃないよ、と教えてくれた。良くも悪くも、私を鬱状態から躁状態へ引っぱり上げてくれた。

だから、とりあえず皆、選挙には行こうよね!
異国への、厚くて重い扉
「低地からの道の入口には<マコンド>という標識が、また、町の中心の通りには<ディオス・エクシステ>(「神は存す」の意)という別のもっと大きなものが立てられていた。」
(『百年の孤独』G.ガルシア=マルケス)


触れただけで音もなく向こう側へ開き、するりと滑り込むことのできる扉がある。はじめから開け放たれていて、大歓迎、と書いてあるのにくぐる気のしない扉もある。かと思うと、ぴたりと閉ざされ、手で押しただけではぴくりともしない、古びた頑丈な扉がある。

マコンドは、容易には立ち入ることのできない町だ。
雨季には魚が宙を泳ぎ、恋心が黄色い蛾を呼び寄せ、現実か幻か定かではない三千人の死者が、貨物列車で海へ運ばれる町。

生と死がゆるやかな地続きになるその町で、ブエンディア家の子孫たちはそれぞれの魔術的な孤独を生きる。長い雨の後に長い旱魃が訪れ、そうして百年が、ゆっくりと過ぎてゆく。

ページを開くと、マコンドはいつも扉を閉ざしている。私は途方に暮れ、それから気持ちを静めて扉に肩を押し当て、体重を預けるようにして慎重に、鈍く軋むその扉を押し開ける。その手続きには非常な注意が必要で、いったん中へ入れば、抜け出すことも同じほどに困難だ。何とか扉を引き開けて外へ出る頃には、私はマコンドの止まない雨に打たれてびしょ濡れになっているか、乾季の白い太陽に灼かれてすっかり干からびてしまっている。

いずれにせよ、この小説にあまり長く関わりすぎると危険だ。
まだ物語の最後まではたどりついていないのだけど、そろそろ止めにしようと思う。
ピクニックにうってつけの日
「蟻なんていないよ。/雨なんて降らないよ。」
(詩集『突然訪れた天使の日』リチャード・ブローティガン)


黄砂と花粉が共謀して空を窒息させ始めたと思ったらいつの間にかすっかり桜が咲いている。空気も気持ちももやもやして、ああ、実にまったく、春だねえ。

今日、もうすぐ引っ越す予定の部屋を掃除しに行ったら、洗面台に水がはってあってグッピー(?)が一匹泳いでいた。靴箱に缶入りの餌(顆粒のやつ)がしまってあったので、上から振りかけて帰ってきた。しょうがないので飼う予定。

というわけで、グッピー(?)の名前、募集中。
Designed by aykm.