la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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再びマコンド、幻想の町
「『なんだ!』彼は叫んだ。『マコンドは海に囲まれているのか!』」
(『百年の孤独』G.ガルシア=マルケス)


「あたりまえのことに気づくのは、常に無駄な努力の後だ」
(今日の私のひとりごと)

書きたい気持ちに言葉がついて来ない今日この頃。
結局、鼻の奥に甘い香りが漂っていた数日間の記憶が、私をマコンドに呼び戻したわけで。

ついに『百年の孤独』再読に挑んでます(まだ20ページめ)。

それにしても、ホセ・アルカディオ・ブレンディアの息子がホセ・アルカディオとアウレリャノで、孫がアルカディオとアウレリャノ・ホセと別のアウレリャノで、曾孫がホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンドで、曾孫の息子が法王見習いのホセ・アルカディオで、その甥がバビロニアのアウレリャノで・・・。

これじゃいつ終わるか知れたものじゃないや。
きっと読み終えた後に初めて、私はマコンドが海に囲まれていることを知るのだろう。

ふふ、楽しみ。
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大脳ストリップティーズ/おっと、失礼!
「私がそこをどけばもっとましな人間があとを埋めてくれるでしょう。」
(『お気に召すまま』ウィリアム・シェイクスピア)


言葉を綴ることは最良のリハビリテーションだと思っていた。ところが、日を追うごとに後天性自閉症は悪化してゆくばかりだ。自分の内側を手探りすればするほど、その本質がどんなコミュニティにも受容され得ないもののように思えてくる。そして同時に、どんなコミュニティも私には受容し得ないような。そう、これまでどこにいてもずっとそうだったように、私はここでもまた、あまりにも異質なのだ。

ジェンダーを否定するためには女性が「女性的」であってはならないらしい。私が私の主義信条に反することなく生きるためには、私は私であることをやめなければならないらしい。それとも、もしかすると私の本質は今の私のようではなくて、今の私は周囲の抱く「私」のイメージに自分を合わせてきた結果なのだろうか(つまり丸山眞男の言うように、「何が本物だか何が化けものだかますます分らなく」なっているのだろうか?)。そうすることによって現実の私はずっと生きやすくなったはずが、そうしているうちに私の本質は今まさに、水面下で緩やかに窒息しようとしているのだろうか?
意訳と誤訳の狭間で
「『シャス・スプリーン』の意味は/『哀しみよさようなら』  だそうよ」
(『神の雫』第7巻、亜樹直 作、オキモト・シュウ 画)


※シャトー・シャス・スプリーンはそこそこ有名なボルドーの赤ワイン。「シャス・スプリーン」は仏語で“憂いを払う”の意味。


今回の引用は、人気ワイン漫画『神の雫』のひとコマから。
本来「憂いを払う」という意味の「シャス・スプリーン」を「哀しみよさようなら」とした作者のセンスは、漫画の原作者としては素晴らしいのだろう。繊細でドラマティックな語感が物語のラストをぐっと印象づけている。サガンの『悲しみよこんにちは』を連想させたりもして良いのだけど、でも、この意図されすぎた誤訳はワインの本質を歪めている、と私は思う。

シャトー・シャス・スプリーンというワインは、はっきりした力強い意志を持って「憂いを払い退ける」ワインだ。悲しみが溶け去ってゆくのを微笑んで見送るような、感傷的なニュアンスはない。少なくとも、私の印象ではそうだった。

そしてもうひとつ、この訳に文句をつける理由がある。
さようなら、という言葉が、私は嫌いなのだ。
それが別離の挨拶だからではない。その言葉の主体性の無さ、不透明な無機質さが厭わしいのだ。さようなら=左様なら=そうならば=さらば。言葉自体に、相手に対する発話者の感情が少しも込められていない(表情とか声とかのニュアンスは別として、厳密な語義の話)。

「挨拶は笑顔で」と現代人は教え/教わるけど、私が思うに、「左様なら」とか「さらば」とかいういかにも武士武士した挨拶を、昔の人は決して笑顔では言ってなかったはずだ。もし笑顔で言うのなら、挨拶は「左様なら」より「また会おう」とか「気をつけて」のほうがずっと自然だ(「続きを読む」以降を参照のこと)。

でも、よくよく考えると、大抵の挨拶というものは条件反射かなんぞのようにするりと交わされるもので、語義をとやかく言うべきものじゃないのだろう。第一、私の場合「よくよく考え」てしまうことがうまく挨拶できないひとつの要因になっている。おまけに「よくよく考え」た結果、私は日本語の挨拶のほとんどを「好きじゃない」ということに気づいてしまった。「おはよう」も「こんにちは」も「こんばんは」も。「おやすみ」というのも要するに、穏やかな言葉遣いで「寝なさい」と言ってるに過ぎない。「行ってらっしゃい」もまた然り。

もちろん「考えすぎ」と一笑に附されることは解っているけど、困ったな。
羅針盤によると、進路は南!
ジェイコブズ・クリ-ク シャルドネ・ピノノワール(オーストラリア)

久しぶりにワインの話。

あまりにも印象深いオレンジピールの後味。というのは私が迂闊にも銘柄を控え忘れたシャンパンのもので、たぶん自分の誕生日か何かに買った1995年のヴィンテージもの。ほんの少し苦味を含んで名残惜しげに留まるそのアフターテイストに、私はとても深く心を揺さぶられたはずなのに。

何故か、ワイン名を覚えていない。書き留めもせず、テイスティングメモも取らず、ラベルも剥がさず、写真も撮らず。

馬鹿者。まずかったワインのまずさに感動してラベルを残してる場合じゃないだろうに。仕方がないので、同じワインでなくても同じニュアンスを持つシャンパンを探しているのだけど、試飲会に行っても泡ものは少なくてまだ巡り合えていない(お心当たりがあればぜひ教えて下さい)。

ところで、標題の「ジェイコブズ・クリーク」。
20070320202658.jpg


白ワインに限って言えば、私は豪州産の安ワインととても相性が良い。ワイン好きワーキング・プアの私にとって、オーストラリアは天国のような産地なのだ。やや人工的なクリアさと元気いっぱいの果実味が胡散臭いケースもあるにはあるけど、それが気になるときは自分の体調か気分かが良くないのだなと思う。

ともあれ「ジェイコブズ・クリーク」のスパークリング。シャンパンっぽい、という表現が褒め言葉になるかどうかは微妙だけど、柑橘系の香りだけじゃなく焼きたてのバターロールみたいな香りを持っていて、アフターにあのオレンジピールのニュアンスを、ほんの微かだけど、感じる。

「安くて美味しい」と言われるスパークリング・ワインにつきものの「物足りなさ」や「わざとらしさ」が、ジェイコブにはない。全然ない。一度、ワイン好きの人にブラインドでの価格当てをしてもらおうと思っているくらいだ(私なら絶対、三千円台と答える)。少なくとも、キレイだけど取り澄ました感じのするヴーヴ(イエローラベル)みたいなシャンパンより、私は断然こっちの方が好き。

…ブラヴォ、オーストラリア!


そして自我は乖離する
「誠實!どうしてそんなことがあり得ませう、人間は何も知りやしないのですからね。(中略)おのれ自身の正体もわかりやしないのでせう?」
(『未来のイヴ』ヴィリエ・ド・リラダン)


身体の芯が麩菓子にでもなったような、お湯を注げばぐずぐずと溶け去ってしまいそうな、実に頼りなく心許ない感覚。それが私の、日常における牧歌的な空腹だ。血糖値の低下を食い止めるための美味くも不味くもないチョコレートをかじりながら、不意に私は、自分がそこにいないことに気づく。
まるで自分の魂が、口から漂い出すにあたって代わりに出来そこないのペルソナを吹き込んで行ったかのようだ。そうして魂がどこかの空を彷徨っている間、その私はばたばたと落ち着きなく辺りの空気を引っかき回して過ごす。まるで頭の弱い室内犬みたい。
そう、この私はその私を少々、軽蔑しているらしい。でも、その私がそうやって働いてお金を稼いでくれるから、この私が暮らしてゆけるのだ。

さうやつて金銭を稼いでゐるわたくしは、本当のわたくしとは別の誰かなのです。ひたむきな、でも少々うつかり者の一個の職業婦人ですわ。ええ、やりがひはあります。少なくとも、自分が必要とされてゐると思ひ込むことのできる程度には。
けれど、私の心は、常に別の場所にあるのです。
恋? いいえ、違ひます。わたくし、恋などするにはあまりに自堕落ですもの。さう、恋愛といふものはまつたく、几帳面な方々のなさることです。わたくしにとつては、殿方のご機嫌取りは仕事の間だけで結構。 
ツールーズ発、六時十分
「夕暮れわれ水を眺むるに/流れよるオフェーリヤはなきか」
(かなりうろ覚え、たぶん堀口大學の書いた詩の一節)


オフィーリアというと、私はすぐにこの言葉を思い出す。
初めてこの一節を読んだ時、意味がよく解らなくて十秒ほど考えて、それから急激に可笑しくなって笑ってしまった。夢見がちな男子学生が夕暮れにぼんやり川面を眺めながら、ふと「オフィーリアでも流れて来ないかな」などと思って川上のほうへ視線を転じる姿がありありと思い浮かんで。

んなもの、流れてくるわけないじゃん(ほんとに流れてこられても困るだろうに)。

もとい。
詩人・翻訳家・仏文学者の堀口大學は、古風なヨーロッパの匂いのする、とても澄んだ詩情の持ち主だ。言葉もそうだけれど、フランス語を訳すのにフランス語の語順(主語の直後に述語がきて、その後に目的語、という)をそのまま使うのが、独特のリズムを作っていて良い。サン=テグジュペリの『南方郵便機』の翻訳はほんとに美しくて、私は今では冒頭の数節を諳んじてしまったくらいだ。

「水のように澄んだ空が星を浸し、星を現像していた。しばらくすると夜が来た。サハラ砂漠は月光を浴びて砂丘へと広がっていた。・・・」

もちろん、いつか原文で読みたいという儚い希望もあるけど、日本語版に関しては堀口訳が私の決定版だ。みすず書房の全集が違う人の翻訳なのが歯がゆい!

それは「声に出して読みたい日本語」のたぐいとは一線を画する、普遍的な思考の美しさだ。美しいのは言語そのものではなく、思考なのだと私は思う。翻訳をして初めて気づいた、と堀口が語る原文の「稀有の美しさ」が損なわれることなく写し取られたのは、堀口の思考がテグジュペリのそれとかなりの精度で同調していたからではないか、と。

作家と翻訳家。このテーマはまたあらためて。
…初の「次回予告」。
ノスタルジック☆ウォーターフロント
「簡単な楽しみを多く持つというのはとても大事なことだ。その窓をごらん。身体がこわばって、起きあがって階段を降りることもできないときでも、そこにすわって世界を眺めることができる。」
(『スロー・リバー』ニコラ・グリフィス)


本文とは関係なく、私の簡単な楽しみ=休日の贅沢な朝食。
高山なおみさんの「北欧風プレート」を作ってみました。中央から時計回りに、黒パン、粒マスタード、マッシュポテト、ルッコラ(レシピではベビーリーフ)、ゴーダチーズ(レシピではチェダーチーズ。近所のスーパーに売ってなかった)、オイルサーディン。

北欧風朝食プレート


子供の頃、たまに家族ぐるみで教会をサボって、瀬田川のほとりにある喫茶店のようなカフェのようなお店に遅い朝食を取りに出かけることがあった。朝食メニューはいわゆるコンチネンタル・ブレックファストで、確か、パンと玉子の組み合わせが4種類くらいあって(ゆでたまご&クロワッサンとか、スクランブルエッグ&トーストとか)、それぞれのセットに何故か「パリ」とか「ニューヨーク」とかいう名前がついていたのを覚えている。

スクランブルエッグは半熟の熱々でちょっと強めの味つけで、パリッと焼いたベーコンが下に敷いてあって、すごく美味しかった(記憶が多少、美化されてるかもしれない。その店はずいぶん昔になくなってしまったので、今も美味しいと思うかどうかは検証できないのだ)。

店は白いタイル張りのような建物で、窓からは深緑色をした瀬田川の水面が見えた。今も昔もあまり水の綺麗な川ではないのだけど、さざなみを立てて悠々と横たわっているその川を眺めながら、私はいつも、自分が家族と一緒に船に乗っているような錯覚をおぼえたものだ。

水は見ていて飽きない。ダ・ヴィンチが夢中になってスケッチした気持ちがよく解る。タルコフスキーが「水より美しいものは存在しない」と言った理由もよく解る。テグジュペリは、水は生命に必要なのではなく生命そのものなのだと書いた。ターナーは水彩から油彩へと表現方法を変えたけれども、それでも死ぬまで川と海とを描き続けた。そして、武満は水音だけで構成された音楽を作った。

水の色、水の形、水の匂い、水の味、水の音、水の感触。
それらに対する私の思いは、限りなくノスタルジーに近い。
いや、恐らくそれは、ノスタルジーそのものだ。

昔住んでいた家は、水道の水が甘かった。
暑い夏の日、庭の水撒き用の蛇口をひねってホースから飲む水はまさに甘露だった(汚いから飲んだら駄目だと言われてたけど)。
キラキラする透明な水しぶき。手をのばせば触れられそうなミニチュアの虹。
未だに、あの「庭の水」より美味しい水を私は飲んだことがない。

海はあまりにでかくて不穏で音もでかくて時に猛々しくて底が知れないので苦手だけれど、私は死んだら土でなく水になりたい。オフェリヤのように川を流れてみたい。

できれば海ではなくて、大きな湖に注ぐ川を。

キリエは不要、その2
「過去も未来もなく、ただ日々、減少していく現在があるだけの、退屈の極みと言うべき無時間世界」
(『コカイン・ナイト』J.G.バラード)


やっと、ほんとに「やっと」、J.G.バラードを読んだ。中学生か高校生くらいの時に『沈んだ世界』『結晶世界』と立て続けに挫折して以来、バラードは私の懸案のひとつだったのだ。

本を読む動機というのは幾つもあって、知識を得るために読む、娯楽として読む、時間を潰すために読む、エトセトラ、エトセトラ。私が村上春樹を読むのは批判するためだし、テグジュペリやドストエフスキーは「生きるために読む」という感じ。

そして、バラードはというと。
「仮にもSF好きならば、押さえておかなくてはならない作家」なのだ(そういう、「読んでおかなければならないような気がする」というのもまた、私の読書の大きな動機だ)。やや異色な作家ではあるのだけど、ずっと気になっていた。

『コカイン・ナイト』は、剣呑なタイトルと扇情的な表紙(私が読んだのは新潮文庫版)の割に地味な物語だと思ったけれど、高橋源一郎が解説で書いていた一言が、とても印象的だった。

「バラードにとって、世界はすでに死んでいるのです。」

静かで重たい沈黙。
もちろん死んだ世界にハッピーエンドは訪れないし、死んだ世界で生きている人々にも救済は訪れない。それほどバラードの視線は真摯なのだ。夢見ることを許さない冷徹さ、言い換えれば、おそらくは深い深い、絶望の眼差し。

どうやら、バラードについてはちゃんと学ぶ必要がありそうだ。とはいえ、この人の文章はあまりに非・娯楽的なので読むのに覚悟がいる。読んでいて「ううむ比喩表現が秀逸だ」などと感心している時点で、私はのめり込めていなかった。次の一冊に手を伸ばすには、もう少し、インターバルが必要だろう。

↓「キリエは不要」について、補足
キリエは不要
「自己だと? ふざけるな。こんな世界、ただのでっかい冗談だ。」
(『解体屋外伝』いとうせいこう)


近頃ピノ・ノワールもいいなと思うようになって(木苺の香りがキュンと来るのがいとおしくって)、要するに熱烈なボルドー信者だった私がそんな風に思うようになるのだから「絶対」なんてこの世にはないんだということ。永遠に変わらないものもないんだということ。

その不確かさは悲しみではなく絶望でもなく、むしろあらゆる諍いの種からの解放。
♪グローリア、グローリア♪(←ヴィヴァルディのグロリア・ミサです。リクエストの際は「キリエは不要」と一言添えて下さい。)

自分の趣味嗜好の変化を万物の流転と一緒にしていいのかね。
でも、「こんな世界、ただのでっかい冗談」だしね。

そう言えば高校生の頃、いとうせいこうを夢中で読んだなぁ(この人は私にとってタレントではなく作家だ)。『ワールズエンドガーデン』は、物語より人物より、町が魅力的だと思った。近未来の猥雑で胡散臭いムスリム・トーキョー。カッコいいと思った。でも懐かしくなって去年読み直してみたら存外、陳腐でつまらなかったので驚いた。『解体屋外伝』も昔はすごく面白いと思ったんだけど、今読んだらどう思うんだろう。

ああ、そう、万物は流転するのだよ。
諸行無常って、琵琶法師が語るほど悪くないよね。
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