la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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誰も私を責めないけれど
「好奇心が君を絶えず、自分の外側へ外側へと引きずり出すから、いつまでたっても、君は何者にもなれないのだ。」
 島田雅彦『ユダヤ系青二才』


 休みの日、街に出なきゃと思いながら動けなかった。
 はしゃぎすぎた日々の反動で。
 息が詰まる。
 私は何をしているのだろう。
 いったい、ここで何を。
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生業の憂いも、玉葱の美しさの前には
素性の知れないゼクト
 (うめだ阪急プロデュース?リサ&ガスパールボトル)


 メリークリスマス!
 さて、クリスマス・イヴが明け、私はご機嫌だ。
 何故かというに、昨夜、玉葱を刻んだからなのだ。
 流水でざっと洗い、セロファンのような透き通った茶色い皮をパリパリ剥いた後の、つるっつるのピッカピカの玉葱の、キレイなことといったら!

 雪のような純白と淡い優しいグリーンとのコントラストは、まるで花嫁のブーケみたい。そして、繊維に逆らってさっくりと包丁を入れたときの、清冽な香気ときたら。
タマネギ♪


 クリスマス・イヴに玉葱を切りながらうっとりしてる女ってちょっとどうなのかしら? でもいいのだ。ごはんは美味しかったから。
 乾杯用ワインは“リサ&ガスパール”ラベルの辛口ゼクト。優しい白い花のような香りがなかなか好印象で、さすがドイツの辛口、スモークサーモンにも生春巻にも良く合います。
 でも何だか、皆オードヴルだけでおなか一杯になっちゃって、私が玉葱を刻んで煮込んだ鶏のグラーシュ・スープは翌日回しになった。はは。
 まあ、煮込み料理は1日経つとぐっと美味しくなるからね。

 それに、とにかく、玉葱は美しいのだ。
 この美しさの前では、渡世のごちゃごちゃしたシガラミなんて吹っ飛んじゃうやね。
 いや、ほんとに。
サーキィとカランダール
「日のめぐりがお前の血汐を流さぬまに/お前は盃に葡萄の血汐を流せ。」
(オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』)


 『ルバイヤート』と言えば、古今東西の酒好きのバイブルだ。
 要するに「何でもいいからとにかく酒を飲もう」という詩がたくさん載っている本だ。過去の反省も現在の備えも未来の不安もぜんぶ忘れて飲むべし、酒は素晴らしい、というたいへん愉快な本だ。
愉快な本なのだけど、あまりにも刹那的かつ享楽的で、読んでいると「そんなことでいいのかこの人は?」と逆に不安になってしまう。
「夜は明けた、起きようよ、ねえ酒姫/酒をのみ、琴を弾け、静かに、しずかに!」
 なんて言って、綺麗な“酒姫(サーキィ)”たちが注いでくれる“紅の美酒”とやらを朝からかっくらってゴロゴロしている。んで、良いではないか、げへへ、とか言ってサーキィに絡んだりしたんだろうな(ちなみに酒姫というのは「酒の酌をする侍者」で、「それは普通は女ではなくて紅顔の美少年」なのだとか)。
アラスへの飛行。先天的通過禁止
「その時、或いは、呼び名を持たないそのものを、僕は理解するかも知れない」
(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『戦う操縦士』)


 サン=テグジュペリ。
 私が敬愛して止まない、世界でいちばん好きな作家(翻訳は堀口大學に限る)。
 今まで何度もテグジュペリについて書こうとしたことがあったのだけれど、ずっと書けずにいた。ひとつの大きな疑問が、私の手を鈍らせていた。ようやくその疑問が解けたのは、みすず書房から出ている『戦時の記録』(生前の書簡などを含めた全集)を読んでからだ。
・・・ああ、そうだったのか。
テグジュペリらしくない、と私がずっと考えてきた彼の行動が、本当はあまりにもテグジュペリらしい、というより彼にとっては他の選択肢などあり得なかったのだ、ということが、初めて解った。

「戦争は病気の一種だ」と断言したサン=テグジュペリが何故、フランスードイツの休戦に反対し、前線で戦い続けたのか。
月日が葡萄の血汐を・・・

ボデガ・ファミリア’96(チリ、ウンドラーガ)

 またしても、だ。
 倉庫に劣化ワイン。
「いっちゃってなければ200円でホテルの料理用に卸す」と、師匠が昼休みにテイスティングを始めた。白が5種類くらい。興味津々で見ていたら一緒に味見させてくれたけど、ほとんど見事に「酢」になっていた。師匠ともども「却下」。
 私が涙に暮れながらミュスカデをどぼどぼシンクに流していると、横で「うわ、ボロボロや」という師匠の声。
 そんな酷い状態のワインがあるのかと思って思わずのぞきに行くと、何やら古い赤ワインを抜栓しようとしている。ボロボロなのはコルクの話らしい。でも、乾ききったコルクは師匠のソムリエナイフのスクリューに抗ってボロボロと崩れてゆく。
「・・・乾燥しまくっとるわ。ずーっと立てたまんまやったんやろうなあ」。
 悪戦苦闘の末、コルクの下半分はボトルの中へ落とし込まれた。
 なのに、そのワインのヴィンテージは’96。さほどの古さじゃないのだ。
適度に病んだ僕ら
「絶望は罪である。」(セーレン・キルケゴール『死に至る病』)

 キルケゴールは、「死に至る病とは絶望のことである」と言う。そして、「絶望できないということもまた絶望のひとつの形態である」と言う。そう言って逃げ道を絶っておいて「絶望は罪である」と断言するのだから、読んでいるこちらは笑うしかない。キリスト教においてはすべての人間は罪人であるのでキルケゴールにしてみれば今さらなのかもしれないが、絶望していない人間まで無駄に「それもまた絶望の一形態」などと言って罪人に仕立ててしまうのが恐い。絶望の淵にいる人間をさらに鞭打つようなことを平然と言い放つのも恐い。

 女の子みたいな顔をして、非情なことだ。はは。
 まあ確かに、非情な女の子みたいな顔ではあるのだけど。ははは。

 もっと恐いのは、キルケゴールが伊達や酔狂で言ってるのではないということだ。彼は絶望のことを良く解っている。絶望のことだけではなく、人間の思考と感情のことを。深く静かにそれらを観察していて、繭から糸を取るようにして言葉に紡ぐ(もう少し平易な言葉にならなかったものかとは思うけど)。
 その深く静かな観察から、キルケゴールはこうも言う。「まことに驚嘆は幸福な自己喪失であり、嫉視は不幸な自己主張である。」と。
まさにその通りだ。
“持てる者(権力でも、財産でも、人徳でも、愛でも、才能でも)”を前にしたとき、それを妬む人は不幸で、驚嘆する人は幸福だ。
 だからこそ、「絶望は罪だ」という彼の言葉は恐い。限りなくキリスト教的な発想だけれど、絶望することからすべてが始まるのかもしれないと思っている私は、起き上がりかけたところをまた突き倒されたような気持ちになるのだ。

 絶望は罪か?

 この世の中、すごく前向きで希望に燃えてる人の方がよほど胡散臭いと私は思う。何かの漫画で、子供のアトピーについて「平気で生活している私たちのほうが異常で、本当はその子たちの方が正常な反応をしているのかもしれない」というような台詞があった。だから我々は、適度に病んでいていいのではないかと思う。
もちろん、死にたくなるほど追い詰められる前に、人はそこから逃げ出さなければならないのだけど。
終の棲家(ついのすみか)/「砂の泉」と「ありふれた靴」のこと
 少年と少女が座っている。たとえば廃屋の階段。たとえば夜のテラス。たとえば裏庭の木戸の前。他に誰も来ない場所なら、彼らにとってはどこでも同じだ。
 二人とも、黒髪に黒い目をしている。顔立ちは少しも似ていない。気性もずいぶん違う。にも関わらず、二人は双子の姉弟(あるいは兄妹)のような、不思議に近しい間柄だ。
 自分が死んだら「砂の泉」に捨てて欲しいと、少女は少年に言う。
 その箱は古びた木でできていて、前面がガラス張りになっている。中では割れたワイングラスに注がれた砂が、床にこぼれ落ちてつもっている。
 砂の泉。それがその箱の名だ。
 箱の中には永遠の静寂があり、少女はそこを自分の終の棲家として夢見ているのだ。
 少年は、きっとそうすると少女に約束する。
「でももし僕が先に死んだら、『ありふれた靴』の中に捨ててくれる? その時にはきっと、僕の手も足も、みんなバラバラだろうけど」
 少年は言い、少女はくすくすと笑う。
 その箱は銀色の金属でできている。アンテナがついているので壊れたポータブルテレビのように見えるけれど、画面は割られていて、中では赤と青と黄色のランプが交互に点灯している。そしてそこに、大きな片方だけの木靴が、無造作に突っ込まれている。
 ありふれた靴。それがその箱の名だ。
 その箱の中に静寂はない。代わりに永遠の沈黙が息づいている。少年はそこが自分の終の棲家だとは思っていない。その中でじっと目を見開いたまま、誰かに拾われるのを待つつもりなのだ。
 少女の名は憂愁。
 少年の名は享楽。
 二人は座っている。
 たとえば廃屋の階段に。たとえば夜のテラスに。たとえば裏庭の木戸の前に。彼らの意思に反して、この二人には永遠の命が授けられているのだけれど。



 『コーネルの箱』の著者チャールズ・シミックは、コーネルの最高の楽しみかたは箱を床に置いて傍に横になって眺めることだと言う。でも私には、コーネルの箱の唯一の正しい楽しみ方は、中に入って居心地のいい片隅をみつけてそこで眠ることだと思う。自分が10センチくらいに縮んで、オブジェがちょっと窮屈、というくらいがちょうどいい。たとえば「砂の泉」の、割れたグラスの足に寄りかかって、頭からさらさらと砂を浴びながら。あるいは「石鹸の泡セット」の、薄いガラス板の上で石膏のパイプに寄り添って。あるいは「ル・ピアノ」の、楽譜で包まれた小さな箱に腰掛けて、オルゴールの音に耳を傾けながら。
あの夏を、おまえは生き延びた!
ルチェンテ‘01 (イタリア、ルーチェ・デッラ・ヴィーテ)

 ワインの話。
 とある酒屋の、空調のない倉庫で、ひと夏を越したワインの話だ。

 とある酒屋、というのは、私の働いている会社が経営するディスカウント・ショップ。秋ごろ、劣化したワインを販売してお客さんからクレームがついた。そこで私とシニアソムリエの資格を持つ“師匠”が店に赴き、ストックヤードの商品をテイスティングすることになったという経緯。
狭い狭い事務所で向かい合ってパイプ椅子に座り、間に清掃用の半透明なポリバケツを置いて(それだけで事務所はいっぱいいっぱい)、机に並べたワインを片っ端から口に含んでは・・・バケツに吐き出す。吐き出されたワインは非常にきたならしくて、白と赤が混ざるとゾンビの体液みたいになるのだけど、でも店には半透明のバケツしかなかったし、まあ仕事なんだからしょうがないよね。
生きることの再確認。「リトルネロ」について
「暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ち止まる。…」
(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』、「リトルネロについて」より)

 たとえば火を入れたランタンのように、丸く、暖かく、その磁場は発生する。時には夜中にくるまった毛布のように私を安堵させ、時には懐に隠した剣のように私を心強くする。暗闇で小さく口ずさむ歌は、防具であり、また、武器でもあるのだ。
 暗闇で歌を口ずさむことを覚えた子供は、大丈夫、ひとりでも歩いて行ける。

 私がこの言葉を知ったのは、保坂和志の『アウトブリード』という本でだった。『千のプラトー』も図書館で借りてはみたけれど、とても私の手に負える本ではなかったので、「リトルネロについて」の冒頭部分だけをコピーして大切に持っている。

 暗闇を歩くのは、とても不安で困難なことだ。けれど、恐くても、小声で歌を歌えば安心なのだ。この穏やかな絶望の中を、私はあたたかなランタンの炎に似た歌を歌いながら、これからも、顔を上げて歩いてゆこうと思う。
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