la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
くろんど池に羊を見に行こうプロジェクト、vol.1
「ところが、フリーな時間に浸って煙草を燻らせていると、やはりさきほどのUターンのポジションまで、自然に思考が行き着いてしまう。まるで、その標識がまだ立っていることを怖々確かめにいくように。」
(『少し変わった子あります』/森博嗣)


Vol.1、というからにはvol.2もあるのだろう。
きっと。
たぶん。
まあ、ひょっとすると。
いや、必ず。

先のことはさておいて、今日、十数年ぶりに森博嗣の小説を読んだ。
森博嗣は、実を言うとそんなに好きな作家ではない。大学を出て最初に就職した職場の先輩がペーパーバックのシリーズをごっそり貸してくれて、当時は今よりもっと「自分が何を読みたいのか解らない」という暗中模索期だったので、目の前に本が差し出されれば条件反射で引っ掴む、という感じだった。まあ、決してつまらなくはなくて、だからそのシリーズは最後まで読んだし、それからも何冊か、別の作品を読んだりもしたのだけれど。

それでも結局は遠ざかってしまった。振り返れば少しサブカルチャー色&計算ずくな技巧色が強すぎて、私の古典/純文学趣味とは相いれない、というのが正直なところだ。
引用した『少し変わった子あります』にしても、行方不明になった友人に紹介された不思議な店を主人公が訪ねる気になった時点で、実は最後の展開が見えてしまった。森博嗣のことだから奇抜に裏切ってくれるのかと思いきや、まったく、100%、予想通りの結末。

でも。そういうプロットの粗さ(プロットの粗さ、なんて、森博嗣にはいちばん縁遠い評だろうけど)を超越して、細部の語りや比喩の面白さで充分、最後まで読めた。まあ、比喩なんかはいくぶん鼻につく「狙いすました感じ」があるのだけど、そこは森博嗣だし。

もとい。
くろんど池に羊を見に行こうプロジェクト、vol.1、のことを書きたかったのだ。
今月、有給も取っていないのに、珍しく連休があった。
その前の休みは高熱を出して寝込み、翌日はそのダメージで欠勤。その後三連勤したあとの連休だ。
当然、療養がてらだらだら過ごすのがセオリーだろう、と思っていた。
ところが。
最近、庭を放ったらかしにしていることに気づいた。
野菜ゾーンは家人がまめに世話をしてくれているので、セーフ。「庭の騎士」ことアシナガバチが軒下に巣を作ってくれて、怖いのは怖いのだけどアシナガバチは野菜にたかる虫を狩ってくれる文字通りの「騎士」なので、今年は虫喰いの被害が比較的少ない。
しかし、野菜ゾーンの奥が、もう野放図だったんである。
名も知らぬ雑草が元気いっぱいにはびこり、アップルミントが煉瓦の仕切りを越えてのさばり、セイタカアワダチソウがすくすく育っている。
草刈りをせねば、と思いつつ、体調不良やら天候不良やら単なる怠惰やらで、すっかり放置していた。

思いきって長袖長ズボン、日焼け止めに虫除けスプレーをして、ざくざく雑草&アップルミントを刈る。そのうちに家人も参戦、あっという間に庭はキレイになって、あろうことか去年熟れすぎて捨てたミニトマトの種が勝手に芽吹いて花を咲かせていたり、青紫蘇が虫喰いひとつない立派な葉を茂らせていたり、移植した覚えもない山椒が生えてきてたりと、なかなかワイルド&ワンダフルな実情が明らかになった。

これってあれかな。
人があれこれ世話するより、放っとくほうが植物は元気に育つのかな。
つまり、自然農法ってやつなのかな。
と思いつつ、草刈りほんの十分くらいで終了。

んで、本題はその午後である。
「エスニックぶっかけそうめん」なる創作料理で昼食を終えた後、不意に「くろんど池に羊を見に行こう」という話になった。
しかし、私は病み上がりである。
その前の休日は高熱を出して寝込み、何とか平日の三連勤はこなしたものの、夜になると微熱がぶり返したりしつこい咳に悩まされたりしていた身である。
訊くと、多少の登りはあるけれど素人でも充分に行ける範囲(もちろん自転車で)だそうだ。
田んぼに放されてのんびり草を食んでいる羊を、見たくないわけがない(私は)。

それで、まあ、様子を見ながら行ってみることにしたのだけれど。

案の定。
家人が「平地」と呼ぶなだらかな起伏が私には「丘」としか思えず、家人が「入口」と呼ぶ登り坂が私にはあまりにもしんどく、日差しは残酷に照り付け、止むを得ず小休止するもサイクリストが当たり前に水分補給するなんかあのプラスチック容器から水を飲む要領があんまりよく掴めないでいる私はもろにむせて地面に水を吐き出し、風邪の余波である咳も相まって、普段はしんどがる私を面白がって引き回す家人が「目が死んでる」「引き返そう」と言う始末。

それでまあ、中途棄権しました。

ああ、羊、見たかったなあ。

あんまり中身のあるエピソードではないけれど、そこはvol.2に期待。
「ああ、羊、見たかったなあ」と思っても、たぶん私にはまだ、この先「羊を見る機会」があるだろうから。
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どんな春よりなお春らしく
三方に窓のある部屋。
北側と南側に大きめの窓、西側には横に細長い窓が二か所。
そんな部屋だから夏の西日には心底、体ごと閉口するけれど、冬の終わりの西日ときたらこの美しさはどうだろう。

シャンパンゴールドの光が磨り硝子と麻のカーテン越しにきらきらと輝き、沈みかけの太陽の、名残りの熱が肌に届く。
光の移ろいを言葉に移そうと虚しい努力をするうちに、顔を上げれば窓はすっかりピーチベリーニの色に染まっている。次に顔を上げたときにはすうっと色褪せて雪空の冷ややかなブルーグレイに変わり、そして今度は上から下へ、菫色から朱鷺色への息を呑むようなグラデーション。

このところ、ひと雨ごとに暖かくなり、家の近くの土手や空き家の庭ではふきのとうが顔を出している。そのほろ苦い香味は、私が春を待ちわびていたのはこれのためだったのかと思うほど懐かしく、私は切ないような胸の痛むような気持ちでそれを味わう。
今日は二回目の収穫で「ばっけみそ(ふきのとう味噌)」をたくさん作った(五十嵐大介の『リトル・フォレスト』を読んで以来、「ふきのとう味噌」ではなく「ばっけみそ」と呼ぶようになった)。ジャムの空き瓶ひとつぶんと、少しずつラップに包んで冷凍するぶんと。

昨日からは寒気が戻り、ずいぶん冷え込んで雪が降ったりしたけれど、春の訪れはいつもそんな風だ。人を油断させておいて急に身を翻したり、かと思うといきなり懐深くへ飛び込んで来たり。

ともあれ、春は、確実に来る。
それは誰にも、かの冬将軍にも止められない。
冷たい風の隙をつくようにして届く日差しの暖かさ。
少しずつ緑色を取り戻してゆくタイムの葉。
柔らかく密度の濃いフェンネルの新芽。
いつも冬を待たずに枯れてしまうチャイブの、健気なような剽軽なような、不意の復活。
春の兆しが少しずつ、春の証に変わってゆく。
うん、まあ、畑に芽吹いてくる雑草たちも。

何だか今年の春は、これまでのどんな春より、ずっと春らしいような気がする。

ああ、春っていいなぁ。
ただこの地球で生きること~基本のゆでたまご~
「肉も野菜も命があるもの。」
(季刊誌『Sommelier』131号より、ジビエを供するワインバー「ピエス橘町」店主の言葉)


何もする気になれなかった休日の終わり、五十嵐大介の漫画『リトル・フォレスト』を読む。

何もする気になれなかった自分を少し恥じて、夜の八時過ぎ、キッチンに立った。

卵を茹でて、殻をむいて。
卵は水から入れるのじゃなく、水が沸騰してから、お玉でそっと沈める。
ひび割れて中身がもろもろ出てくる可能性を恐れる場合は、お湯に酢を入れておく(私は加熱した酢の匂いが苦手なので入れない)。
最初の二分くらいは、黄身が偏らないように、ときどき鍋を傾けて転がしてやる。
鍋底に触れる卵のコトコトいう音を、それが茹で加減の参考になるわけではないけれど、ただ心地よいのでずっと聞く。
半熟なら、卵を入れて10分。
固ゆでなら、13分。
時間になったらお湯を空けて、流水をかけながら殻にひびを入れる。
薄い膜と白身のあいだに水を入れるイメージで、水の中で殻をむく。

これが基本のゆでたまご。
応用のゆでたまごとか、発展のゆでたまごとかは無いから、ただの「ゆでたまご」なんだけど。

『リトル・フォレスト』は、田舎の、農家の暮らしを描いた漫画だ。いや、ほとんど日々の「たべもの」を描いた漫画だ。田んぼや畑だけではなく、山や川での収穫を、どんな風に食べ、どんな風に加工し、どんな風に保存するか。蕗味噌やくるみごはん、山菜の天ぷらから、トマトの水煮やジャム、ヘーゼルナッツ(はしばみの実)とチョコレートのペースト「ヌテラ」なんかも作る。薪ストーブで焼いたバゲットと用水路に自生しているクレソンをたっぷり使ったサンドイッチが朝食だったりもする。

農業の大変さが大仰に描かれることはない。「リトル・フォレスト」の人々にとって、その暮らしかたはあまりにも長い間あまりにも当たり前に続けられてきたものだから、薪を割るのも堆肥をつくるのも胡桃を割るのも味噌を仕込むのも、どんなに手間のかかることでも事もなげに、息をするのと同じように、のんびりも急ぎもせずにやるのだ。

生きるために食べるのではなく、食べるために生きる暮らし。
私みたいなずぼら者に向かないのは解ってるけど、かなり、憧れはある。
本当は、生きることって、そういうものなんじゃないかと思うから。
食べるために生きる暮らしには、人間という生き物が何をどうやって食べ、何をどうやって食べられるようにし、何をどうやって食べ繋ぐか、という知識と技術が凝縮されていて、何故だか私はそういうことをこそもっと知りたい、試してみたい、身につけたい、という欲求を強く感じる。

脱サラして農業はじめる人たちも、ひょっとしてこんな気持ちなのかな。
それとも、ぜんぜん違っていたりもするのかな。

何もする気になれなかった夜の「ゆでたまご」は、鶏の手羽元と下茹でした大根と一緒に、醤油味で煮た。
おいしくなあれ、と呪文を唱えてみたけれど、翌日食べてみたらちょっと、味が薄かった。
何も語りたくない今、敢えて言うならば
本を読む気が起きない。
何も書く気になれない。

低気圧を伴う前線がずっと私の上空にだけ停滞していて、ぼんやりと私を塞ぎ込ませている。

何かしらブログを更新しなきゃと思って、書けることは以下の近況報告のみ。

・冬の収穫を目指して、ミニキャロットとターサイの種を蒔いたこと
・蒔き時を逃した青ネギも一緒に蒔いてみたこと
・ターサイがぎゅうぎゅうに芽を出して、間引いてやらなきゃならないこと
・ミニキャロットもちらほら発芽していること
・青ネギが芽を出さないこと
・二台目(二代目)の車が見つかったこと
・週一回程度、適度な運動をしている(運動音痴の私が、クロスバイクとかいう自転車に乗るようになった)こと

そんな感じ。

たぶん、友達に連絡を取るのが億劫なのは、報告するに足る出来事が特に何も起こっていないからなのだ。

ああ、平穏無事ってつまらないな。
いや、波瀾万丈が傍で見るより過酷なのは解ってるつもりだし、それを望んでるわけではないのだけど。

無いものねだりってやつなのかな。
初夏の庭からこんにちは
久々に庭のことなど。

昨年の秋~冬にかけての庭は何だか閑散とした感じだったのに(いちおう野菜も作ってみたけど出来は芳しくなかった)、春になった途端ハーブたちがぐいぐい巨大化してびっくりしている。
フェンネルはほとんど「樹木」だし、隣のクラリセージの葉はほとんど「団扇」だし、枯れて姿を消したと思っていたチャイブも、気がついたら復活していて可憐な花を咲かせた。ベランダ園芸時代からの「引っ越し組」アップルミントは、地面暮らしがよほど嬉しいらしく物凄い(普段「ものすごい」は平仮名で書くのが好きだけど、ものすごさを強調するために?漢字表記にしてみる)勢いで繁茂している。
他にはパセリ、イタリアンパセリ、バジル、ナスタチウムなど。
あと、蚊よけ効果を期待してレモングラスも。

↓↓野菜のほうはこんな感じ。↓↓

zucchini.png
minitomato.png<
okura.png








↓↓化け物フェンネルのbefore&after↓↓

レンガの大きさを参考に。

fennel_before.pngfennel.png
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