la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
ヌーヴォーの、甘く優しいカウンターパンチ
「…酒屋の隅に追いやられていることが多いので、ついつい応援したくなりますね。」
(柳忠之『名ソムリエの、おうちワイン』より、アルザスのピノ・ノワールについての林寛氏の談)


毎年恒例、ボジョレー・ヌーヴォー解禁日です。
毎年恒例ですが、解禁日だいぶん過ぎてます。

これも毎年書いてる気がするのだけど、私は本来、ボジョレー・ヌーヴォーが嫌いだ。まして今年は「仕事で関係なくなったから」という徹底した薄情さで、ほとんど解禁日のことなんか忘れ去っていた。
たまたまお酒を買いに行ったお店で、店員さんが陳列しているのを見かけて「あ、もうそんな時期かぁ」と嘆息していて、ふと気がついた。
あれ? 今日ってまだ水曜だよね? 解禁、明日だよね?
レジに持って行ったらそのまま買えてしまうんだろうか、と思ったけれど(解禁日の午前零時より早く売るのは違法です)、敢えて試してはみなかった。

さてさて、解禁日から四日めの今日。別な用事があって京都のイオンモールに行き、ぷらりとカルディ・コーヒーファームに立ち寄った。そうしたら、「ただいまワインコーナーにて、ボジョレー・ヌーヴォーの試飲を行っておりまーす」の声。
一応、買わなくても、テイスティングしておけばヌーヴォーに対する義理は果たせるよね。
というよく解らない理屈で、さっそく店内ワインコーナーへ。

フルボトルで二千円ちょっとの、POPによると「極上ヌーヴォー」。
でもまあ、そんなに期待するほどのものじゃないのは解ってるから、冷めた気持ちでプラカップを受け取る。
色調は、凝縮感のある濃いルビー色。君ほんとに新酒かね、と心の中で訊いてみる。
香りはほとんど取れなかったけど、「私は育ちのいいワインです。」と言ってるような、上品な赤系果実がほんのり。いかにもヌーヴォーなガムっぽい感じはない。
口に含むと、トーンは高いけれど丸みのある酸が最初に来て、中盤からふわりと優美な甘い果実味が広がる。ヌーヴォーにしては稀有なくらいバランスが良く、余韻も綺麗。ずいぶんエレガントで、ワインとしての余裕さえ感じさせる(普通ヌーヴォーというのはどこかしら不自然な緊張感を持ってるものだけど、それが全然なかった)。

余韻に残るブドウの新鮮な皮っぽさにこちらが気づいて初めて、「ああ、バレてしまいましたか、実は私、新酒なんです」と、ちょっと肩を竦めてみせる感じが何とも小粋。
最近、果実味ぎっしり&タンニンどっしりよりもピュアで透明感のあるワインのほうが好きになってきてるのもあるけど、その辺のACブルゴーニュよりずっと好印象だった。
というより、私がヌーヴォーを蔑視しすぎてたんだろうか?

結局、試飲で満足しちゃって、買わなかったけどね。
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filles de la fermeの妄想朝ごはん
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長浜まで、「フィーユ・ドゥ・ラ・フェルム」というお店にランチを食べに行った。
電車で片道一時間。
ただ、お昼ごはんを食べるために。
Filles de la ferme、「農家の娘たち」。
新聞か何かで紹介されてた記事を、母親が切り抜いて実家の冷蔵庫に貼ってたのだ。
それで、行こうよ、ということになって。

その帰り道、「ああいうお店で、泊まれたらいいね」と母親が言い出して、「ああいうお店」の朝ごはんを想像してみたらそれはもう美味しそうで、ごはん食べた直後なのに妄想が止まらなくなった。カリっと焼いたハードパンにバターと蜂蜜。半熟あつあつのゆでたまご。グリルしたソーセージに粒マスタードを少々。新鮮な葉物野菜の何種類かをヴィネグレットでさっと和えたサラダ。ミルクと絞りたてのオレンジジュース、淹れたてのコーヒー。
うーん、食べたい。すごく食べたい。
と、妄想が暴走する。

でもとにかく、ちょっと類を見ないくらい素敵なお店だったので、ちょっと類を見ないくらい詳細に書き留めておきます。不特定多数の目に触れるようなブログじゃないので、宣伝にはならないかもだけど、すごく応援したいお店。読んで気になった方はぜひ一度、行ってみてください。
※ちなみに、食事のときに写真を撮るのはあんまり好きじゃないので、画像はショップカードで誤魔化しておきます(笑)

↓↓本日のランチ↓↓
未亡人と過ごすクリスマス
「あなたの知性をあなたの人生の導き手となさい。」
(ティラー・J・マッツエオ/『シャンパーニュの帝国』より、ヴーヴ・クリコが曾孫に宛てた手紙の一節)

クリスマス前に飲み物の打ち合わせをするのはだいたい私と兄の役目で、今年はシャンパンを私が/赤ワインを兄が、という分担に決まったのだけど、「泡をお願いしたい」という依頼のメールの最後に「ヴーヴクリコが、飲みたいな♪」とあって呆気に取られた。

最後の「♪」にも些かイラっとしたのだが、それよりヴーヴ・クリコって。
たぶん、ブリュットのイエローラベルのことを言っているのだろう。まさかグラン・ダーム(馬鹿高いトップキュヴェ)ではあるまいが、それにしても、薄給の身には予算オーバーだ。

そもそも私は「黄色」という色があまり好きでないのと、コルクを押さえている王冠に描いてあるマダム・クリコの肖像画がどうにも苦手なのと、「ヴーヴ」という響きが何となく気に入らないので、ヴーヴ・クリコ案には反対した(同じ金額を出すとしても他の、恐そうなおばさんの肖像画なんかついてないシャンパンが良かった)。

けれどやはり、直截「ヴーヴ・クリコ」と名指したからには「きっと何か理由があるのだろう、もし別のシャンパンを買っていってひどくがっかりされたり、何かの計画を台無しにしてしまってはまずい」と小心者ぶりを発揮して結局、指定通りの黄色い箱を抱えて実家に帰った(最近、実家に帰ってばかりいる気がする)。

けれど何のことはない、わざわざそれを指定したのは兄から私へのクリスマス・プレゼントがヴーヴ・クリコの伝記だったからで、そういう演出のために贈る相手に贈り物以上の出費を強いるってどういうことよ、とまた呆れたのだけど、まあ、イエローラベルは記憶にあったよりずっと美味しくて(もっと繊細で上品なイメージがあったのだけど、意外と芯が強く艶やかだった)、みんなも喜んでたので、ま、いいか。

赤は、レイヴンズ(レーヴェンス)・ウッドのジンファンデル。大好きなワインのひとつだけれど、シャンパンだけで食事が終わってしまったので、抜栓せずお正月回しに。

ちなみにメインは雑誌『dancyu』の掲載レシピでビーフシチュー(美味しかったけど私は別のレシピのが好き)。兄のお手製キッシュ(サーモンと黒オリーヴ)も、義姉のお手製リンゴのタルト(カッテージチーズ入りで甘すぎず爽やか)もとても美味しかった。
自分が料理には参画せず酒だけぶら下げて加わる、というのが、ちょっと居心地悪く思えるくらいの盛り沢山な「実家」クリスマスでした。

i wish you a merry Christmas and a happy new year!
ラギオールでホタテを開けること
ワインの話ではないんですが。

ホタテ


昨日、衆院選の投票のため実家に帰って、毎度のことながら珈琲と夕食をご馳走になった。
投票所の掲示板を見たところでは投票率はげんなりするほど低くて、政治に関与しないってことは自分の現在にも未来にも興味がないってことだよね、自分の知らないところで自分の生活がああだこうだ議論されて決定されて実行されるのを少しも怖いと思わないんだね、と、幾らか侮蔑的な気持ちにさえなってしまった。

それとは無関係に、画像は実家からお土産にもらった北海道産「殻つきホタテ」(別に実家が北海道なわけではない)。殻の隙間からペティナイフを差し込んで殻と貝柱を切り離すのだけど、私はペティナイフを持っていないので、うちにある物の中でいちばん「ペティナイフ的」なもの、ということで使ったのがこれ。
ソムリエナイフです。しかもラギオール・アン・オブラック(おいおい)。

本来ワインのキャップシールを切るための小さな刃を、ホタテ貝の殻の間にぐっと突っ込む。途端、貝がぐーっと閉じてきて、指を挟まれる(結構すごい力だった)。何とか貝柱を半分くらい切り離したところでホタテが息絶えたのか、ふっと殻の抵抗がなくなって、無事に開いた。

すごいよ、ソムリエナイフ。これで牡蠣とかも開けられるかも。どこだかの国でやってる「牡蠣の殻開け選手権」みたいなの(本当にある)に出られるかも。
というのはさておいて、持つべきものは食道楽の親だと思った。
だって普通、料理人でもなきゃ、生きてるホタテを捌くなんて経験できないもんね。
そんで今日、そいつをバター焼きにして食べたんだけど、すんごい、美味しかった。

…久々の自慢話でした。

追記。実家では父が実に器用にホタテを捌くので感心していたら、「チヌ釣りの餌に使う二枚貝のバラし方と同じ」なのだと教えてくれた。うーむ、チヌ釣りの経験がこんなところで活きるとは。
人生、何が役に立つか解らんね。
病み上がりのボジョレー・ヌーヴォー
ほの暗い、長いあいだ使われていなかった屋根裏部屋のような、あたたかく籠った匂い。グラスを揺らすと微かに揮発系の刺激を秘めた香りが来て(一瞬、余計なもの混ぜてないだろうな、と失礼千万な考えが脳裏を過る)、それからようやく、幾分しらじらしいフローラルな甘さが香り立つ。
ボジョレー・ヌーヴォーの中に私が去年初めて見つけた、香料っぽい甘さが主体。
それは少し経つと、見事に苺キャンディの単調な匂いに変わった。
例年のチューインガム香、それこそがヌーヴォーの証だと私が思っていたあの香りは、グラスに鼻を突っ込んでみてもまったく感じられない。

そうか、キャンディの香りという表現は、あのチューインガム香に無理やり与えられた肯定的イメージではなかったのか。つまり両者は、まったく別の要素だったのか(一年経ってようやく解ける誤解もある)。

さて、今年もボジョレー・ヌーヴォー解禁日がやって来た。
しかもこれまで毎年“世紀のビッグ・ヴィンテージだ”なぞと騒いでいたのが突然、今年は不作なのだという。
タイトルの「病み上がり」は私のことではなく、今年のヌーヴォーのことだ。
飲んでみると、確かにここ数年の中でいちばん「薄っぺらい」。
やや酸っぱく弱々しい余韻を申し訳のように残して雲散霧消する、そんな新酒。

けれど自信満々、鳴り物入りで解禁された去年(世紀のビッグヴィンテージ)の新酒よりも、私には、今年の「どうにかお届けできましたよ」という控えめな新酒のほうがずっと好印象だった。

収穫量が減り、生産量も減り、一時は価格の高騰もやむを得ないと言われていた今年のヌーヴォー。けれど生産者たちは瓶詰めした新酒のほとんどを日本への輸出に回すことで、日本市場での価格の高騰を回避した(馬鹿げた話だ)。
結果、大手スーパーやディスカウントショップが例年通りの「最安値」競争を繰り広げ、競争力を持たない中小企業の従業員(たとえば私)は少なからず、うんざりする羽目になる…。

だから私は、根本的なところで、ボジョレー・ヌーヴォーが嫌いだ。解禁日のチラシでどこが最安値を叩くかなんて正直「どうでもいい」し、その最安値の裏に何があるのかなんて知りたくもない。解禁日だといって浮かれ騒ぐのも馬鹿ばかしいし、そもそもワインとしてのヌーヴォーの品質さえ、決して肯定してはいない。

それなのに今日、雨が降っているという理由で手近なコンビニエンス・ストアに行き、私は最大手デュブッフのハーフボトルとすぐ下の棚に陳列されていたリッツクラッカー(チーズが挟んであるやつ)を無造作にひっつかんでレジに直行した。
自分がまんまと「不特定多数の消費者」の枠にはめ込まれてしまったことに苛立ちつつも、これが私の「分相応」、と皮肉な気持ちで思ったりする。

けれど、解禁日にヌーヴォーを買う、という空虚な約束事を守り続けるのには理由がある(毎年、もう来年は買わない、と心に決めるのだけど、そう言いながら実は、自分が来年も買うだろうと薄々勘づいているのだ)。
そして去年までとは打って変わって、今年の私は「これからも毎年、ヌーヴォーを買おう」と思った。そして、自分の苛立ちや皮肉な気持ちをそのままに、毎年、ヌーヴォーを買って飲んではあれこれ思索を巡らせよう、と。

ブドウが不作であったことを包み隠さずストレートに伝える今年の薄っぺらな新酒は、それでも造り手たちの懸命の努力によって届けられたものなのだ。
育てられたブドウ、醸された新酒、空輸されたボトル。不作であっても、新酒は造らねばならない。そして、市場へ届けねばならない。
何だか、そんなことを考えると、美味しくなくたっていい、と思ってしまった。

いくら不作だって我々は今年育ったブドウで今年もワインを造るんだという、決意表明のような、宣戦布告のような(それにしては弱々しいけど)、そんな「2012年ヴィンテージ」のメッセージを、私は読んだ。

…勝手にね。
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