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la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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アライヴィング・イン・ディス・ワールド
「この人類は間違っているという真理を知ることは大切である。すべての人類がこれを知った時こそ、その時のみ地球上に真の善と愛と幸福が訪れるであろう。」
(山田風太郎/『戦中派焼け跡日記』)

明けましておめでとうございます。
実感としてはそんなにめでたくはない新年(私的領域ではまあ比較的めでたがれる状況。ただ世間が何だかどうも、ねえ)だけれど、私は誕生日も新年も「新たな歳/年を迎えたこと」を喜ぶのじゃなく、「ここまで無事たどりついた」ことを喜ぶものと決めているので、世相がどうであろうと素直に祝うことにしている。

で、山田風太郎なんか読んでる。
まあ山田風太郎だし、時代も時代だし、特に女が読むと不愉快極まりないくだりが多々あるのは事実。でも、山田風太郎が馬鹿にする女って、たぶん今の時代に身近にいたら私でも「ちょっとどうなん?」って思うタイプだ。
「軍需工場で仕事するのに髪を島田に結ってくる女」がいい例で、現代じゃ「どんな時でもお洒落心を忘れない」というプラス評価と、「このご時世に非常識すぎる」というマイナス評価とに分かれるんだろうと思う。でも私のマイナス評価は非常識論ともまた違って、「それ、センス悪いんですけど」という一点。現代的に説明すれば、作業服でやる工場バイトに髪を夜会巻きにして来るイメージでしょうか。
作業服を着るなら、髪は潔いショートか、長ければきっちり纏めるほうがずっとお洒落だ。
逆に言えば、髪を夜会巻きにしたいなら、いっそ作業服も拒否してイヴニングドレスを着るべきなのだ(それなら格段に麗しい眺めになる)。
だから、髪を島田に結うのなら、モンペも拒否して美しい和装を貫かなきゃ嘘なのだ。
まあ、当時はそんなこと当然、無理だったんですけどね。
髪を島田に結う人がいたっていう時点で、「おお、やるじゃん」と思う一面もあるんです。
でもやっぱり、結局、軍需工場で働くのに髪を島田に結う、という人の心理には、単に「綺麗な私」を自慢したいだけ、という浅薄さを感じてしまう。たとえそれが抑圧に対する反抗心の顕れであったとしても、そんな中途半端な「許される範囲での反抗」って、意味ないし、しない方がマシかも、と思ってしまう。

まあ若い男性の日記、あれこれ愚痴っぽく青臭くヒロイズムの匂いすらして危うく感じる部分も多々ありますが、それは年齢以前に時代の制約やら報道やらを思えば無理もない、と許容できるし、不思議と「もう読みたくない」とはならなくて、結局『戦中派虫けら日記』も併せてじっくり読みました(『戦中派不戦日記』も近々読む予定)。

表面的にはかなり軍国主義的かつ性差別的、でも真正面から向き合って読めば、著者の理想が軍国主義的でもなければ性差別的でもないことが理解できるし、けっこう共感することもできる。

というわけで私としては、戦時下の日常を綴った読み物として、『この世界の片隅に』よりこちらを推したい。
もちろんこの表面的な軍国主義っぽさや女性蔑視っぽさに共感してしまう読者層が出てくると、それは本気で困るけど。

ええと、他にもいろいろ読んでます。
もどかしいくらい読んでます。
最近のお気に入りは、ケイト・アトキンソン。筒井康隆の『残像に口紅を』、満を持して(?)読んだけど、私はサーカスよりバレエが好きなので、言語のアクロバットは楽しめなかった。
そう言えば島田雅彦の新刊が出てたはず(読まねば!)、とか、パワーズの未読の長編がひとつあるけど図書館に入ってない、とか、そんな、ごくごく平和な焦りだけがある新年です。

穏やかに緩やかに見守ってくれる人たちに、多謝。

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ままならぬまま、どくしょきろく
「ドナ・ノービス・パーチェム(我らに平安を与え給え)」
(リチャード・パワーズ/『我らが歌う時』)


パワーズは、大好きな作家だ。
存命中の作家の中では一、二を争うくらい好きだ。
初めて読んだのは『舞踏会へ向かう三人の農夫』。アウグスト・ザンダーの同名の写真を見知っていたために感慨深かったというのは余禄に過ぎず、写真展か何かでその写真に出会って小説を書く決意をした、というパワーズのこの自伝的(というか脳内の枝葉末節まで思うさま詰め込んだ)小説には、もう何というか、全面降伏、という感じだった。

読み終えた当初の、これってこの著者の唯一の作品になるんじゃないか(つまり手持ちの卵をこの篭にぜんぶ詰めちゃったのじゃないか)、という私の不安を尻目に、パワーズはその後もコンスタントに作品を発表し続け、私はそれを読み続け、ほとんどの小説に夢中になれるという幸せ。

今年になって、『我らが歌う時』を再読した。
詳細は過去に書いたので省くけれど、やっぱり、私のいちばん好きなパワーズ作品はこれ。単行本を買って本棚に置きたいのに、悲しいかな、装丁が気に入らないので(趣味の問題)、今のところ買うのは見合わせている。

私の場合、好きな作家の本は装丁もいい感じに仕上がっていることが多いのに、パワーズのはどの本も、なんか、違う。装丁しづらい小説なのかな、と思わなくもないけど、表面的なメッセージをただ貼りつけただけ、みたいな装丁をするくらいなら、いっそのことタイトルと著者名だけでシンプルに仕上げて欲しい。

パワーズの著作がすっきりしたデザインで文庫になったら迷わず全作買いそろえるのになあ(というか、何で文庫で出ないんだろう)。

ともあれ。
処女作が柴田元幸の翻訳で日本に紹介されるという、原書で読めない読者にとってはありがたい限りの邦訳デビューだったにも関わらず、その後のパワーズ作品は翻訳者がころころ変わっている。
『我らが歌う時』の翻訳には特に文句はないのだけれど(一ヵ所だけ、この台詞は「彼女」のじゃなく「彼」のだろう、と思ったところはあったけど、それも前後を考慮すれば「彼女の」だという解釈もじゅうぶん成り立つし、相手はプロの翻訳家なのだから、素人の身で「誤訳だ!」と言い張る自信はまったくない)、できるなら同一作家の作品は同じ翻訳者の訳で読みたい、と思ってしまう。

そして、たぶん若島正訳で出るはずだったのだろう長編が、未だに出版されていないのも気になる。明白にバッハのゴールドベルク変奏曲をモチーフにしている(ゆえに読みたすぎる)作品が、何らかの事情で未訳のままになっているのだ。
パワーズにチェス小説を書いてほしい、というのは最前からの私の夢想で、その点でもパワーズと若島正は相性がいいはず、と思うのだけれど(とは言え、私にはパワーズ作品の中で唯一『ガラテイア2.2』=若島訳=を消化しきれなかった過去がある。ナボコフも若島訳のだけ挫折してたり。ゼラズニィの『ユニコーン・ヴァリエーション』も、今では大好きな短編だけど読み始めはずいぶん手こずった)。

というか、私はただ、読みたいだけなのだ。
『ゴールドバグ・バリエーション』を。
この際、誰の訳でもいい。
というか、いっそ英語を読めるようにならなきゃ駄目なのか、と思わされてしまうくらい、読みたいのだ。

プリーズ・プリーズ・ミー。
ドナタカ・ホンヤク・ト・シュッパン、オネガイシマス。

以下にざっくりと、最近のどくしょきろく。
佐藤亜紀の『スウィングしなけりゃ意味がない』、ブラヴィッシモ!!
あえて、生きることの意味を問うならば
「…ぼくたちは世界に対して、地下室人としてでもスタヴローギンとしてでもなく、親が子に接するように接するべきだというものである。」
(東浩紀/『ゲンロン0 観光客の哲学』)


言い換えれば、と著者は続ける。「コミュニタリアンとしてでもリバタリアンとしてでもなく、家族的類似性に基づき、いわば新生児に接するように他者と接するべきだ」と。
言い換えられたほうがむしろ難しい、と思うのは、ドストエフスキー好きならではの所感だろうか。

久々に「どくしょきろく」の破片を書き付けてみる。
生きることの意味を問わない、という、香山リカの教えに従ってしばらく生きてみたものの、やっぱり何か、意味のある人生を生きたい、と思ってしまうのは仕方のないことだろう。別段、何かの分野で名を成したいとかじゃないし、お金持ちになりたいわけでもないし、自分の仕事と生活を守ることに無理なく注力できるという今の環境は、それなりに楽しい(や、生活と仕事、か。生活より仕事が先に来るようじゃちょっと違うな)。というのはひとまず措いて。

いわゆる「哲学」の語るああだこうだ、それ特有のくだくだしい言い回しやら勿体ぶった前置きやらから遠ざかって久しいので、この『観光客の哲学』は、乱読者を自負する私にも少しハードルの高い本だろうな、と思っていた。
実際には、難しいと言えば難しいけれど、私の足りない脳味噌が条件反射的に拒否する一部分をあきらめて読み飛ばしてしまえば、それ以外はずいぶんと読みやすい文章で親切に書かれている。
哲学とかを理解しようとしてた過去の自分がどんだけ「わからんまま読んでた」かが明らかになって赤面もの、またその誤読が「普通ならそう思うかもしれない、だが」みたいな感じで懇切丁寧に正されるのがいっそう恥ずかしい。

東浩紀の文章は学生時代にちょこちょこ読んで、はっきりと面白かった、という記憶があったのだけど、この調子じゃ当時の自分、間違いなく何も理解してなかった。

なら今の自分はどうかというと。

はい。
あんましよくわかりません。

最後まで読んで、これは「ひとにやさしく」という思想なんだな、というのが私の感想。
引用と説明だらけの第一部より、補遺的な第二部のほうで、なんかそういうことなのかな、と思いました。
そんで、全面的に賛成です。
合ってれば、だけど。

でも、面白い、と思ったんだ。
(「面白い」という表現が上から目線に捕えられるとしたらそれはちょっと違って、私の場合はこの言葉、共感と称賛の入り混じった感じで使ってます。というかこんな説明いちいちする辺り、東浩紀の丁寧な説明グセが感染してしまってる?)
「ハイデガーの過ちは、彼が、複数の子を生みだす親の立場ではなく、ひとり死ぬ子の立場から哲学を構想したことにあった」という一文など、思わず吹き出してしまうくらい面白かった(「ここでの親は必ずしも生物学的な親を意味しない」/原文より)。
しかも、私が「面白い」と思ったのは『観光客の哲学』そのものについての整理された第一部じゃなくって、あれこれ抜けてるし突き詰めきれてない、と著者の言い訳がついてたほうの第二部だし。

でも、推敲されて懇切丁寧に説かれる言葉より、勢いに任せて書かれた文章のほうが魅力的だったりもするんだ。

学生時代の私が「哲学」のあれこれにかかずらって、生半可な態度でそれと付き合ったあげく「ばかばかしい」となってしまったのは、哲学って結局、「私」のことしか考えないのだ、他者とか社会とか世界とか言っても、最終的に興味の中心はこの「私」(社会やら世界やらを分析するにしても、常に分析する「私」の視点が固定されている)、ような、うーん、今ひとつ何を言ってるのか自分でもわからないけれど、「今ここにいるこの俺!」的な気配にうんざりしたからなんだろう。

哲学やる人って、なんか皆、屈折したホイットマンだ。
屈折したホイットマンって、そう言葉にしちゃうと何だかテロリストの気配にも似て。

ちょっと駆け足で書き飛ばしてしまっているけれど、あともうひとつ。
この『観光客の哲学』第二部で考察されているドストエフスキーは、私の偏愛する作家でもある。
まあ、父殺しの文学、というのはフロイト以降ずっと言われていて多分そうなんだろうし、主人公が作品を追うにつれ弁証法的に「超克」されてゆく、という解釈も、ものすごく「その通り!」だと思う。でも私の素人解釈(これはへりくだって言うのではなく「より単純明快な」という意味)では、単にドストエフスキーという人が限りなく自己承認欲求の強い人だったんだろう、ということになる(かく言う私もたぶん自己承認欲求の強い人間なのだけど、ただそれは不特定多数からのではなく、特定少数からのだ)。

普段ドストエフスキー論では無視されがちな『白夜』という掌編の、私のお気に入りの一節がある。
「ひょっとすると、あなたはぼくをぼく自身と和解させて、ぼくの疑問を解決してくださったのかも知れません…」(ドストエフスキー/『白夜』)。

自分を自分自身と和解させること。
つまり、自分で自分を承認すること。
それができないと、人は他者からの承認を求めずにいられなくなる。
そして、自分で自分を承認することができて初めて、人は「大人(親)」になれるのだろう(繰り返すとこれは生物学的な親という意味ではない)。

勢いのままあれこれ書いたけれど、今日は何となく、読み返しも推敲もしないでこのまま投稿してしまおう。

だって、本心だから。
再び、ウンベルト・エーコにうってつけの日
「僕は世界中に分派した秘密結社の存在は認めますが、それは世界規模の陰謀が実在するという噂を流すための陰謀を企てている結社です」
(『フーコーの振り子』/ウンベルト・エーコ)


先の記事で「出典不明」として書いたうろ覚えの文章の訂正版です。
何とまあ、呆れたことに、当の『フーコーの振り子』を読み進めるうち、上巻のほとんど終わり頃にこの台詞が出てきたのでびっくり(ヴォネガットだろうかと思ってたのに)。

ってことは、明らかに私が『フーコーの振り子』を読むのは二回目だということで、それも一度めに、少なくとも上巻の最後くらいまでは読んだということだ。
でも登場人物の名前にぼんやり既視感を覚えるくらいで、ストーリーやら何やら、まるっきり忘れてしまっている。
エーコ様ごめんなさい。

二連休明けての四連勤は憎たらしいくらいの晴天に恵まれて、恨めしげに目を細めつつ青い青い空を見上げながら仕事をしていたのだけど、さて再びの休日、天気予報は見事に「雨」。それでまあ、はしゃがず普段通り、ちょっと部屋片づけて買い物行ってあれこれ料理して、空いた時間は再び『フーコーの振り子』を読んで、と地味に過ごしたのだけれど、雨って結局、陽が沈む頃ようやっと降り出した感じで。

伝説や迷信や予言や陰謀に翻弄されて肩すかしをくう感じも、これまたとてもエーコっぽくて、先の記事で書いた想像の成り行きとは違っているものの、エーコの呪い説を本気で採用してもいいような気持ち(「本当ではないが、私は信じる」/「信じてはいないけど、でも本当なのよ」)。

まあ、うろ覚え問題がかなり電撃的な決着をして面白かったから、良しとしよう。
ウンベルト・エーコにうってつけの日
この世には、世界規模の陰謀を企む秘密結社など存在しない。存在するのはただ、世界規模の陰謀を企む秘密結社があるという噂を流している秘密結社だけだ。」
(かなりうろ覚え。出典不明。お心当たりの方ぜひご教示ください)


五月。
陽光きらめき新緑が濃さを増し青空にツバメが舞い飛ぶ、否応なしに胸の鼓動が高まる季節。
今年はまだ一度もカヤックを出していないので(一応、記事にしてないだけで去年はけっこう漕いだのだけど)、念願というか既に悲願の川下りを決行すべく、四月のうちから計画を立てていた。
ゴールデンウィークは仕事に忙殺されることが解っていたので、世間の連休が終わる頃に連休をもらって、いそいそお弁当の献立まで考えて(川下りしながらカヤックの上でお弁当を食べるって、想像するだけで幸せ)。

けど一週間前に「週間天気予報」を見ると、どうも私的連休の初日は雨っぽかった。
まあ二日あればどっちかは大丈夫、と自分に言い聞かせてはいたけれど、結局、私的連休の前日からけっこうな雨が続き、下る予定だった川はけっこうな濁りっぷり、さらに連休二日目も地味に雨が降り続けるという残念な結果になった。

その連休の直前にY市の図書館で借りたのが『フーコーの振り子』。文春文庫版で上下巻。
テンプル騎士団。薔薇十字。フリーメイソン。秘密結社。陰謀。失踪。暗号。殺人。
ああ、これはウンベルト・エーコの呪いに違いない。こんな本を借りたから雨になったんだ(エーコは去年死んだばかりだから、まだ成仏し切れずにその辺うろうろしてても不思議じゃない)。
借りたからには遊んでないで最後まで読め、という、これはエーコの呪いなのだ。
と、死者(それも世紀の大作家)に責任転嫁してみる。

でも雨の降り続く休日というのは確かに読書にうってつけで、降り込められて否応なしに読み続けるのがエーコ、というのもまたしっくりくる。

読んでるうちに眠り込んでしまって、びくっとなって目を覚ましたり。
そうしながらも読み進んで、連休(くどいようですがGW終わってからの私的二連休)明けていきなり空は快晴だったり。
それでも何故か、『フーコーの振り子』は上巻の半分をやっと過ぎたところだったり。

うーん、面白いのか、面白くないのか。
時制がやたらあちこち飛ぶのと、説明がまわりくどいのと。
のったらのったらのったらのったら、という感じで続いてゆくのは距離や時代を経て微妙に混じり合ったり分化したりする宗教や儀式の説明で、読んでいるうちに根源をたどっているのか行く末を追っているのか解らなくなる。

というか、既に読んだことあるような気すらする。
いや、たぶん、これ昔、読んだことある。
か、途中で挫折したことがあるのかも。

でもまあ、かほど綺麗さっぱり忘れ去っていることがエーコに知れたら本格的に祟られかねないので、あらためて最後まで読むべし、と思う。

もし次の休日がものすごくいいお天気で、絶好のカヤック日和だったとして、そのとき私が「でも『フーコーの振り子』まだ読み終わってないし、続きが気になるから今日は読書デーにする」とか何とか言い出したら、それこそ本当の「エーコの呪い」だろう。

※『フーコーの振り子』の冒頭に引用されているのは「迷信は不幸をもたらす」という言葉。異存はまったくないけれど、この引用がこの本を読むのに熱中できない一因でもある。『薔薇の名前』を読んだとき以上に、「そんなオチかい!」となりそうな予感がものすごくする。幽霊譚の妄想オチ系(ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』、シャーリィ・ジャクスンの『たたり』。この二作品について「幽霊説」と「妄想説」のどちらを取りますか? 私はどちらも、読み始めて比較的すぐ「妄想説」を取りましたが…この二作品はむしろ「妄想説」のほうが怖さが増すと思いませんか?)。

ああ、そろそろ「どくしょきろく」を真面目に書かないと、また読んだ本を全忘れしそう。
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