la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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放浪ヒツジはどこまでも
「気付くと寝台に居て、部屋には蒸留所特有のかすかな湿り気を帯びた木樽の香りがしっとりと漂っていた。」
(クラフト・エヴィング商會『クラウド・コレクター』)


ずいぶん長い旅をした。

カトマンドゥであるはずのないカトマンドゥや、シギショアラであるはずのないシギショアラ。
季節は晩夏だったり晩秋だったりして、残酷なほど荒涼としてはいないけれども、いっときの美しさの中に致命的な瑕疵として悲しみを内包している、そんな風景の中を私は歩いた。

Kと歩いたのは深い藍色をした運河のほとり。何故か風景はガラス越しで、Kと私は「いつか来るならここにしよう」と約束している。CとTと三人で駆け下りたのは煉瓦造りのメトロの階段。すぐ脇を列車が走り抜けて、Cは小さく悲鳴を上げた。

ニューヨークであるはずのないニューヨークで、地上のプラットホームの上に立っている。線路と線路の間にある砂州に似た中央分離帯のところに、自由の女神の巨大な頭部が、顎と右頬とを半ば地面に埋めて転がっていた。その向こうには取り壊された小屋の名残だろうか、古びたコンクリートの壁があり、その周囲でアーミッシュの人々を思わせるモノトーンの服を着た人々が、思い思いに立ったり座ったりして何かを話している。身振りを交えながら笑いあっている恋人たち、寝そべって微笑しているヒッピー崩れの老人。

「ああいう人たちも、ふだんは普通の技術者だったり学校の先生だったりするんだよ」と、後ろから誰かがそう教えてくれる。一瞬、Jかと思って振り向いてみたけれど、そこにはもう、誰もいない。

気がつくと、私はそのプラットホームに一人で立っていた。
ここからどこへでも行けるんだと思った。
どこへでも気の向くまま、好きなところへ。

けれど、私はそこから動けなかった。
どこへでも行けるということとどこへも行けないということが、まったく同じことを意味しているのだと気づいたからだ。

しばらくそこに立ち尽くしていてから我に返ると、自分の部屋のベッドの中にいた。

寝ていた。

眠れないのは解っていたから、ベッドに潜り込んでただじっとしていたのだ。
それがいつの間にか、浅い眠りに引き込まれてしまっていたらしい。

かくて夜中の三時に目を覚ました私は、藍色の川と自由の女神のトゲトゲの冠のイメージに茫然としながら、取り逃がした眠りを慌てて追いかける。

どんな夢オチだよ、と思いながら。
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どくしょきろく、得点つき
最近あまりに本を読み過ぎてちゃんと書評も書かずにいるので、まあ記録だけでも、と言いつつかなり長々と。
ひとつの記事をまとめるのが億劫になってきたので、これから時々こんな風にまとめて載せてしまおうかな。
ちなみに今、人生で初めて「買ったけどまだ読んでいない本がある」という状況を体験していて、困ったことに悪くない気分。

チェス小説を完全制覇?しようという試みは順調に進行中。
意外とつまらない作品が多くて面白い。

タイトルと著者名の後に百点満点の乱暴な点数をつけてみたけど、総じて得点が高いのは私もそろそろ何を読めば面白いかが体験的に解ってきていて、読む前にかなり選り好みしてしまっているから。

では、どくしょきろくへ。
ブログでツイート。
わかられるのって、ちょっと癪に障る。
…当たっていれば、尚更。
偽善者の祈り
「これは何年かに一度だけしか起らぬような、人の精神状態が正確に心の眼にうつる瞬間の一つだった。」
(『緋文字』ナサニエル・ホーソーン)

…人の(己の)精神状態が正確に心の眼にうつる瞬間。

その瞬間を、私は恐れるだろうか?

否、恐れはすまい。
自分の精神状態ならば、それが心の眼にうつることは、むしろ冷静な理知の瞬間として歓迎されるだろう。

私が恐れるのは、この心の眼に、「他者の」精神状態が正確にうつる瞬間なのだ。

それが何年かに一度ではなく、しばしばあるので参る。

煩くて重くて意識が引きずられる。通りを歩いていて、民家の窓の向こうに不和の景色を見てしまうのと同じ。

誰かが傷つき疲れて、声もなく泣いている。
誰かがその傍らで、どうにもならない怒りと混乱に身を焼かれている。

それらの不幸を前に、私にはいったい何ができるのだろう?

彼ら/彼女らが私に向けて何かを語ってくれるなら、私は耳を傾けよう。語ることで、ただそうすることで、癒える傷もあるだろうから。

私は神を信じない。
けれど、他者のためなら祈れる。

神様、冷徹で残酷な…。
でも確かに、祈ることで、ただそうすることで、癒える傷もあるらしい。

…少々『緋文字』調の出だしだったけど、読み返してみると、自分を神様に見立てているようにも受け取れる文章。

ああ、こうして訪れる冷静な理知の瞬間は、私を深刻な自己嫌悪へと導くのだ!

…と、再び『緋文字』調で締めくくってみる。
誓へども虚しき心地す神無月
前回「死にたい」とか物騒なことを書いたのだけど、どうもこれは「死にたい」というほど積極的な情動ではなくて、「うっかりすると、つい死んでしまいそう」というのが正しいらしい。たとえば「ちょっと柵を超えたら100メートルまっさかさま」みたいなところへ近寄ったりすると、ぷらっと、ごく気軽に、その柵を越えてしまいそうな感じなのだ。

そのくせ、そういう感じがあんまり暗いものでも重いものでも痛いものでもなくて、割にあっさりしている。それを自分で不思議に思うかというとそんなこともなくて、私は「死ぬ」ということのあれこれについてずっと考えていた。もちろん死ぬことの意味とか死後の生とかではなくて、もっぱら死にかたと死んだあとの身の回りのこととか。

そういう具体的なことは考えれば考えるほど克明に、生々しく、「死」の手触りを確かにしてゆくのだけれど、リアルになるというのは私にとってはかなり興醒めなものだというのがよく解った。

昨日から今日までの間のある瞬間にふとバカバカしくなって、私は結局、死について考えるのをやめてしまったのだ。

あーあ。
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