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la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
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ままならぬまま、どくしょきろく
「ドナ・ノービス・パーチェム(我らに平安を与え給え)」
(リチャード・パワーズ/『我らが歌う時』)


パワーズは、大好きな作家だ。
存命中の作家の中では一、二を争うくらい好きだ。
初めて読んだのは『舞踏会へ向かう三人の農夫』。アウグスト・ザンダーの同名の写真を見知っていたために感慨深かったというのは余禄に過ぎず、写真展か何かでその写真に出会って小説を書く決意をした、というパワーズのこの自伝的(というか脳内の枝葉末節まで思うさま詰め込んだ)小説には、もう何というか、全面降伏、という感じだった。

読み終えた当初の、これってこの著者の唯一の作品になるんじゃないか(つまり手持ちの卵をこの篭にぜんぶ詰めちゃったのじゃないか)、という私の不安を尻目に、パワーズはその後もコンスタントに作品を発表し続け、私はそれを読み続け、ほとんどの小説に夢中になれるという幸せ。

今年になって、『我らが歌う時』を再読した。
詳細は過去に書いたので省くけれど、やっぱり、私のいちばん好きなパワーズ作品はこれ。単行本を買って本棚に置きたいのに、悲しいかな、装丁が気に入らないので(趣味の問題)、今のところ買うのは見合わせている。

私の場合、好きな作家の本は装丁もいい感じに仕上がっていることが多いのに、パワーズのはどの本も、なんか、違う。装丁しづらい小説なのかな、と思わなくもないけど、表面的なメッセージをただ貼りつけただけ、みたいな装丁をするくらいなら、いっそのことタイトルと著者名だけでシンプルに仕上げて欲しい。

パワーズの著作がすっきりしたデザインで文庫になったら迷わず全作買いそろえるのになあ(というか、何で文庫で出ないんだろう)。

ともあれ。
処女作が柴田元幸の翻訳で日本に紹介されるという、原書で読めない読者にとってはありがたい限りの邦訳デビューだったにも関わらず、その後のパワーズ作品は翻訳者がころころ変わっている。
『我らが歌う時』の翻訳には特に文句はないのだけれど(一ヵ所だけ、この台詞は「彼女」のじゃなく「彼」のだろう、と思ったところはあったけど、それも前後を考慮すれば「彼女の」だという解釈もじゅうぶん成り立つし、相手はプロの翻訳家なのだから、素人の身で「誤訳だ!」と言い張る自信はまったくない)、できるなら同一作家の作品は同じ翻訳者の訳で読みたい、と思ってしまう。

そして、たぶん若島正訳で出るはずだったのだろう長編が、未だに出版されていないのも気になる。明白にバッハのゴールドベルク変奏曲をモチーフにしている(ゆえに読みたすぎる)作品が、何らかの事情で未訳のままになっているのだ。
パワーズにチェス小説を書いてほしい、というのは最前からの私の夢想で、その点でもパワーズと若島正は相性がいいはず、と思うのだけれど(とは言え、私にはパワーズ作品の中で唯一『ガラテイア2.2』=若島訳=を消化しきれなかった過去がある。ナボコフも若島訳のだけ挫折してたり。ゼラズニィの『ユニコーン・ヴァリエーション』も、今では大好きな短編だけど読み始めはずいぶん手こずった)。

というか、私はただ、読みたいだけなのだ。
『ゴールドバグ・バリエーション』を。
この際、誰の訳でもいい。
というか、いっそ英語を読めるようにならなきゃ駄目なのか、と思わされてしまうくらい、読みたいのだ。

プリーズ・プリーズ・ミー。
ドナタカ・ホンヤク・ト・シュッパン、オネガイシマス。

以下にざっくりと、最近のどくしょきろく。
佐藤亜紀の『スウィングしなけりゃ意味がない』、ブラヴィッシモ!!
[ままならぬまま、どくしょきろく]の続きを読む
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いつかわたしがかえるところ
「わたしはもう女であることに弁解じみた態度をとらないと決めました。」
(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ/『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』)

自分らしくあることの最大の困難は、「自分らしさとは何か」に気づくこと、次に、「その自分らしさと和解すること」だと思う。

私は昔から、フェミニンな服を着ていたほうが俄然、周囲の受けがいい。
可愛い、と言われる。
でも私はそれを、まるで喜べない。
可愛い、という言葉には、無害な・無力な・無邪気な・おバカな、といったイメージが、かなりはっきり表れているからだ。
そんなキャラクターが「モテ」て「愛され」る世界なんか、絶望的だとさえ思う。
そして、そう言ってみたときの「愛され」る、というのは明らかに「可愛がられる」「ちやほやされる」という意味合いで、残念ながら実際の「愛」とは何の関係もない。

ちなみに、私は自分のことをフェミニストだと思っている(厳密に言えば、性別というのは個々人を評価するためにはまったく不要な基準だと思っている。それが「フェミニズム」という思想と完全に合致するのかどうかは今でも自信がないけれど)。
それらしく性格や言動はかなり荒いほうで、それらしくなく、外見と性質はまったく女々しい(おんならしい、ではなく、めめしい。ちなみに私は女らしさは好きじゃないけど、めめしさは割りに好き。女らしい女は苦手だけど女々しい女は好き。女らしい男は苦手だけど女々しい男は好き)。
私はずっと、そのことを気にしていて、今でも気にし続けている。

若かりし頃の思い出。
フェミニズムの勉強会みたいなのに参加したいと思って出かけた時。
男子九割・女子一割、みたいな地味系サークルを見学に行った時。
どちらの場でも、私は女性陣からかなり露骨な敵意をぶつけられた。
前者の場合はたぶん、「可愛い女」と見做され、フェミニズムの敵、と思われたため。
後者の場合はたぶん、「可愛い女」と見做され、恋愛市場における敵、と思われたため。

実際の私が恋愛にもファッションにも興味がなく、「自分の食いぶちは自分で稼ぐ」というのを当然のことと捉え、ミシェル・フーコーを偏愛していて、酒飲みかつ煙草吸い、であっても。
他人はそんなことまで知ろうとはしてくれないのだ。
そんなにも、人は他人を外見で判断するのか。外見でしか判断しないのか。
そう思って、愕然とした。

そんなある時、ふと辺りを見回して、何だか皆、自分に似合った服を着てるんだな、ということに気づいた。
単に顔立ちと服装、というだけでなく、話しかたも笑いかたも立ち居振る舞いも、ぜんぶがしっくり「その人らしさ」に馴染んでいる。
(「個性的」と言われるような人でさえ、「個性的と言われる人がよくしているような恰好」をしている、というのはまた別の話か。)
私にはそれが、ひどく羨ましかった。
自分がどういうキャラクターで、どう見られたいのか、どういう人と仲良くなりたいのか、そういう事柄を、皆、「ぱっと見」で解るように発信している感じなのだ。
外見だけで判断されたくない、という言葉はそこにはもうなくて、手っ取り早く自分のことを知ってもらうために可視化した個性を身にまとっている、という印象。

他人の視線が苦手な私は、長らく外見や服装を「見られるもの」としてしかとらえてこなかった。
それが「見せる」ものでもあるのだ、と理解したのは、ごく最近のこと。

でも、私のぜんぶを見た目で表現しようとすると、うーん、突き詰めるとやっぱり(ガチでやったことはありませんが)、ゴスロリみたいなことになっちゃうのかな。
という、不可解、かつ、不明瞭、かつ不条理なところにしかたどりつかない。


そんで、本題(カヤック)はこちらです。
あえて、生きることの意味を問うならば
「…ぼくたちは世界に対して、地下室人としてでもスタヴローギンとしてでもなく、親が子に接するように接するべきだというものである。」
(東浩紀/『ゲンロン0 観光客の哲学』)


言い換えれば、と著者は続ける。「コミュニタリアンとしてでもリバタリアンとしてでもなく、家族的類似性に基づき、いわば新生児に接するように他者と接するべきだ」と。
言い換えられたほうがむしろ難しい、と思うのは、ドストエフスキー好きならではの所感だろうか。

久々に「どくしょきろく」の破片を書き付けてみる。
生きることの意味を問わない、という、香山リカの教えに従ってしばらく生きてみたものの、やっぱり何か、意味のある人生を生きたい、と思ってしまうのは仕方のないことだろう。別段、何かの分野で名を成したいとかじゃないし、お金持ちになりたいわけでもないし、自分の仕事と生活を守ることに無理なく注力できるという今の環境は、それなりに楽しい(や、生活と仕事、か。生活より仕事が先に来るようじゃちょっと違うな)。というのはひとまず措いて。

いわゆる「哲学」の語るああだこうだ、それ特有のくだくだしい言い回しやら勿体ぶった前置きやらから遠ざかって久しいので、この『観光客の哲学』は、乱読者を自負する私にも少しハードルの高い本だろうな、と思っていた。
実際には、難しいと言えば難しいけれど、私の足りない脳味噌が条件反射的に拒否する一部分をあきらめて読み飛ばしてしまえば、それ以外はずいぶんと読みやすい文章で親切に書かれている。
哲学とかを理解しようとしてた過去の自分がどんだけ「わからんまま読んでた」かが明らかになって赤面もの、またその誤読が「普通ならそう思うかもしれない、だが」みたいな感じで懇切丁寧に正されるのがいっそう恥ずかしい。

東浩紀の文章は学生時代にちょこちょこ読んで、はっきりと面白かった、という記憶があったのだけど、この調子じゃ当時の自分、間違いなく何も理解してなかった。

なら今の自分はどうかというと。

はい。
あんましよくわかりません。

最後まで読んで、これは「ひとにやさしく」という思想なんだな、というのが私の感想。
引用と説明だらけの第一部より、補遺的な第二部のほうで、なんかそういうことなのかな、と思いました。
そんで、全面的に賛成です。
合ってれば、だけど。

でも、面白い、と思ったんだ。
(「面白い」という表現が上から目線に捕えられるとしたらそれはちょっと違って、私の場合はこの言葉、共感と称賛の入り混じった感じで使ってます。というかこんな説明いちいちする辺り、東浩紀の丁寧な説明グセが感染してしまってる?)
「ハイデガーの過ちは、彼が、複数の子を生みだす親の立場ではなく、ひとり死ぬ子の立場から哲学を構想したことにあった」という一文など、思わず吹き出してしまうくらい面白かった(「ここでの親は必ずしも生物学的な親を意味しない」/原文より)。
しかも、私が「面白い」と思ったのは『観光客の哲学』そのものについての整理された第一部じゃなくって、あれこれ抜けてるし突き詰めきれてない、と著者の言い訳がついてたほうの第二部だし。

でも、推敲されて懇切丁寧に説かれる言葉より、勢いに任せて書かれた文章のほうが魅力的だったりもするんだ。

学生時代の私が「哲学」のあれこれにかかずらって、生半可な態度でそれと付き合ったあげく「ばかばかしい」となってしまったのは、哲学って結局、「私」のことしか考えないのだ、他者とか社会とか世界とか言っても、最終的に興味の中心はこの「私」(社会やら世界やらを分析するにしても、常に分析する「私」の視点が固定されている)、ような、うーん、今ひとつ何を言ってるのか自分でもわからないけれど、「今ここにいるこの俺!」的な気配にうんざりしたからなんだろう。

哲学やる人って、なんか皆、屈折したホイットマンだ。
屈折したホイットマンって、そう言葉にしちゃうと何だかテロリストの気配にも似て。

ちょっと駆け足で書き飛ばしてしまっているけれど、あともうひとつ。
この『観光客の哲学』第二部で考察されているドストエフスキーは、私の偏愛する作家でもある。
まあ、父殺しの文学、というのはフロイト以降ずっと言われていて多分そうなんだろうし、主人公が作品を追うにつれ弁証法的に「超克」されてゆく、という解釈も、ものすごく「その通り!」だと思う。でも私の素人解釈(これはへりくだって言うのではなく「より単純明快な」という意味)では、単にドストエフスキーという人が限りなく自己承認欲求の強い人だったんだろう、ということになる(かく言う私もたぶん自己承認欲求の強い人間なのだけど、ただそれは不特定多数からのではなく、特定少数からのだ)。

普段ドストエフスキー論では無視されがちな『白夜』という掌編の、私のお気に入りの一節がある。
「ひょっとすると、あなたはぼくをぼく自身と和解させて、ぼくの疑問を解決してくださったのかも知れません…」(ドストエフスキー/『白夜』)。

自分を自分自身と和解させること。
つまり、自分で自分を承認すること。
それができないと、人は他者からの承認を求めずにいられなくなる。
そして、自分で自分を承認することができて初めて、人は「大人(親)」になれるのだろう(繰り返すとこれは生物学的な親という意味ではない)。

勢いのままあれこれ書いたけれど、今日は何となく、読み返しも推敲もしないでこのまま投稿してしまおう。

だって、本心だから。
ボージョレ・ヌーヴォーのほんとのところ
「生き残るには、こっちの頭なんか何の関係もないのよ。どっちの面の皮が厚いかということなのね。大学で学んだ倫理や正義を捨ててしまうということよ。」
(スキ・キム/『通訳/インタープリター』)


またまた今さらな話。
ヌーヴォー売りというのはどうせ先細りの商売だろう、というのは、たぶん正しい推測だ。
けれど、勤務先の酒屋では今のところ一年で最大のイベント、みたいなことになっていて、10月早々からスタッフ皆、予約の受注に奔走する。

どやねん。
と思う。
まあ、毎年そんな感じで「どやねん」と思いながら売るので、そこは歯ぎしりしながらスルー(歯ぎしりしてる時点でスルーできていない)。

いちおう自分用にも、「黒い果実」の香りがする、とコメントされていた変わり種(普通ボージョレ・ヌーヴォーには黒系ではなく赤系果実の香りが出る)を予約しといて、前の日から挽き肉と白いんげん豆の赤ワイン煮を仕込み、当日帰ってからブロッコリーとブルーチーズのポタージュを作り、チーズやら庭のトマトやら、いそいそ食卓を整えた(ヌーヴォーごときに張り切りすぎ)。

さて抜栓。
セルフ・ホストテスト。
面白い。
本当に黒系果実の、ブルーベリーやカシスを思わせる香り。
情報誌のコメント、嘘じゃなかった(今の職場は決して嫌いじゃないのだけど、情報誌に白ワインのコメントとして「ブルーベリー」と書いちゃうようなガッカリな側面もなくはない。その白ワインはソーヴィニヨン・ブランだったので、多分グースベリーの間違いだろうと思って上司にちらっと訊いてみたら、本社から「グースベリーは日本のお客様には馴染みがないという判断でブルーベリーとした」っていう、まさかの珍解答!! グースベリーとブルーベリーってカケラも似てないし、そもそも白ワインからブルーベリーの香りなんか出るはずない!)。

いや、ヌーヴォーの話だった。
外観はかなり青みの強い、「紫」寄りのルビー色、エッジがはっきりとピンク色。これは実にヌーヴォーらしい。
グラスを傾けると、ディスク(液面)がぎらっと光る。粘性がかなり強い。貴腐ワインなみにオイリー。
これは実にヌーヴォーらしくない。
再びグラスに鼻を突っ込むと、個々の果実を指摘できないくらいの、ごちゃまぜ甘々な果実香がぶわっ!と来る。
これまでヌーヴォーに感じたことのなかった香り。
完熟ブルーベリー(というかほとんどジャム)、完熟カシス(というかほとんどジャム)、キャンディ香というより昔ながらの「ドロップ」みたいな香り。
ヌーヴォー特有のチューインガムっぽさは、気のせいかな? という程度に、ごく微かに察知したような。

口に含むと、熟れた果実の甘味が真っ先に来る。軽く、舌が乾くような(キレイに言えばシルキーな)タンニンが後に続く。酸はほとんど感じられない。
面白い、と思う。
こんなヌーヴォー、今まで飲んだことない。

少し時間を置いて空気に触れさせてみる(というか、お腹が空いてたので食べるほうメインになっていただけ)。

次に口に含んだとき、うえっ、となった。
何だこれ。
めちゃくちゃ甘い。
残糖を感じるくらいに甘い。
退廃的なくらい甘ったるい。
ワインというより、カシスリキュールみたいな甘さ。
あり得ないほどの粘性の高さと相まって、これ何か添加してる? と疑ってしまう。
それも発酵前じゃなくて、発酵後に。

とは言え、確認する術は私にはない。
絶対なんか入れてる!と断言するほど、自分の味覚や嗅覚に自信はない。
そこでそれ以上飲むのを断念。

食事を終えて、グラスに残っていたのを自暴自棄にぐいっと呷った。
薄っぺらい酸味しかなかった。
ブルーベリーも残糖も何もなかった。

何だ???

えーと、たとえて言うならこんな感じ。
電車のボックス席ではす向かいに座ってる女の子が、化粧は濃いんだけど何か心惹かれるものを持ってる。何とはなしに色気を感じる。眼差しが深い、ような気がする。
ちらちら見てると向こうはすぐ気づいて人懐こい笑みを返してくる。話をしたそうな素振りさえする。
んでも、よく見るとふっくらした唇に思いきりグロスを塗ってる。ちょっと香水つけすぎ。ちょっと化粧濃すぎ。甘ったるいわ。これNG。
そんでしばらく目をそらしているうちに、向こうはもう後は家に帰るだけだしこんなメイクしてるの親にバレたらヤバいし、みたいな感じでするする化粧を落として、次に見たらそれ、10歳くらいの子供やった。
ていう感じ。
です。はい。

ある意味、珍しい貴重なワインだったけど。
このヌーヴォー、解禁当日めっちゃお客さんに勧めて売ってしもた。

美味しくないヌーヴォーでも、ヌーヴォーらしいヌーヴォーなら、私は薦める。「これぞヌーヴォー!っていう、王道なんです!」って言うのは、それは嘘にはならないし、お客さんを騙すことにもならないから。
でも、「どっかおかしい」としか思えないヌーヴォーを(知らなかったとは言え)勧めるっていうのは、「やっちゃいけないこと」だった。

ヌーヴォーなんやから、未然に防ぐのは不可能やねんけど。
そんで、ほんまはヌーヴォーなんか売りたくないねんけど。
そんなもんやねんな、酒屋の店員て。
と、珍しく関西弁まるだしで落ち込みました。
招かれざる客への、深夜の言い分
夜。
疑いもなく夜。
ほぼ深夜。

リアルタイムでどうでもいいことをUPしてみると、つまり、つい先ほど、部屋にゴキブリが出たのです。
伏字になんかしませんとも。
ゴキブリです。
太字にしてもいいくらいです。
ゴキブリです。
それも、黒くて艶々して、ほとんど「ぷりっと」したやつです。

あのね、ベッドの上で須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』を読みふけってるときに、エアコンの送風口からいきなり肩先にぽったり落ちて来るなんて、アナタどう考えても非常識でしょう。
冷や汗かきながら凍殺ジェットで凍殺して、台所用のビニール袋に密封して捨てましたけど。

うちは田舎住いなので、そりゃ虫は出ます。
おうち周辺にはスズメバチとかムカデとか、マムシなんかも平気で出ます。
庭の菜園においては、ミミズは土を耕してくれる「お百姓さん」だし、アシナガバチは害虫を捕食してくれる頼もしい「騎士」です。
家の中だって、ムカデもヤスデも出るし、蛾や蟻や謎の羽虫やらは普通に共存してるし、可愛いところで(?)ヤモリやアシダカグモはもう「友達」の域です。

でも。
ゴキブリは、なんかちょっと、違う。
でもまだ、台所や居間や、そういうところに出るんならまだいい(いいのか?)。

私が寝るとこに出るってどうよ。

ああもう、田舎ムリ。
(というか、都会でも出るのかあいつらは。)

何でもいいけど、いま私は須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』を読んでいて、大好きな梨木香歩と通じるところがあるな、と思ってて、キリスト教とか海外での生活経験とか共通点も多くて、でも梨木さんは「白身魚とハーブ」の人で須賀さんは「生ハムとオリーブ」の人だな、と思って、今の私は生ハム&オリーブの気分なんだな、とか思ってて。

そんな時に肩先にゴキブリが落ちて来てそれを退治しなきゃならないっていう悲愴感。

はい。
ただいま退治完了しました。
とりあえず、ぶっちゃけずにはいられませんでした。

おやすみなさい。
早く涼しくなればいいのに。
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