la petit cuvee

“プチキュベ”と、舌ったらずに発音して下さい。 くれぐれも、「ヴェ」と下唇を噛まぬよう・・・。
招かれざる客への、深夜の言い分
夜。
疑いもなく夜。
ほぼ深夜。

リアルタイムでどうでもいいことをUPしてみると、つまり、つい先ほど、部屋にゴキブリが出たのです。
伏字になんかしませんとも。
ゴキブリです。
太字にしてもいいくらいです。
ゴキブリです。
それも、黒くて艶々して、ほとんど「ぷりっと」したやつです。

あのね、ベッドの上で須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』を読みふけってるときに、エアコンの送風口からいきなり肩先にぽったり落ちて来るなんて、アナタどう考えても非常識でしょう。
冷や汗かきながら凍殺ジェットで凍殺して、台所用のビニール袋に密封して捨てましたけど。

うちは田舎住いなので、そりゃ虫は出ます。
おうち周辺にはスズメバチとかムカデとか、マムシなんかも平気で出ます。
庭の菜園においては、ミミズは土を耕してくれる「お百姓さん」だし、アシナガバチは害虫を捕食してくれる頼もしい「騎士」です。
家の中だって、ムカデもヤスデも出るし、蛾や蟻や謎の羽虫やらは普通に共存してるし、可愛いところで(?)ヤモリやアシダカグモはもう「友達」の域です。

でも。
ゴキブリは、なんかちょっと、違う。
でもまだ、台所や居間や、そういうところに出るんならまだいい(いいのか?)。

私が寝るとこに出るってどうよ。

ああもう、田舎ムリ。
(というか、都会でも出るのかあいつらは。)

何でもいいけど、いま私は須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』を読んでいて、大好きな梨木香歩と通じるところがあるな、と思ってて、キリスト教とか海外での生活経験とか共通点も多くて、でも梨木さんは「白身魚とハーブ」の人で須賀さんは「生ハムとオリーブ」の人だな、と思って、今の私は生ハム&オリーブの気分なんだな、とか思ってて。

そんな時に肩先にゴキブリが落ちて来てそれを退治しなきゃならないっていう悲愴感。

はい。
ただいま退治完了しました。
とりあえず、ぶっちゃけずにはいられませんでした。

おやすみなさい。
早く涼しくなればいいのに。
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オフィーリアに捧げる頌歌
「大事なのは物事にどう対処するかではなく、ほかの生き物や生命とどうかかわりあうかということだ」
(レックス・ゴードン/『宇宙人フライデー』)


それが大事なのは、ちゃんと解ってるのだけれど、私はどちらかというと、物事に対処することの方が得意で、ほかの生命とうまくかかわりあうことが、いくぶん苦手だ。
基本的に、家族も友達も知り合いも職場の人も赤の他人も、皆が元気でいてくれればそれでいい。
そんで基本的に、みんなが私はそれなりに元気だ、と思っていてくれればそれでいい。

ところが琵琶湖でぷかぷかしていると、幸福感と同時に息苦しいような切ないような気持ちが湧きあがって来る。
幸せ、という感覚が、手放しで幸せなのではなく、不意に泣きたくなるような不安の裳裾を引きずっているのに気づくのだ。

今年初のカヤック、勝手にホームグラウンドと定めた琵琶湖西岸、駐車場から出艇場所までカヤック担いで一分を切る便利至極なロケーション。

基本的に私の琵琶湖カヤックは「漕いでいる」時間より「浮いている」時間のほうがずっと長い。それも「半浮き」、つまりスターン(船尾側)をちょっと岸に乗り上げさせて漂流しないようにしておいて、前半分は波に揺られるままに遊ばせておいて、その半浮きのフネの上で自分は何をしているかというと、ごはんを食べてたり本を読んでたりバードウォッチングをしてたりするのだけれど、それ以外には何にもしないで水の音や鳥の声を聴きながら、ただ浮いている感じを「味わって」いる。

「味わう」というのは語義通り、美味しいものを食べるときのあの感覚とまったく同じだ。琵琶湖には、もちろん目で見える景色もあり、海とはまた違った湖特有の匂いがあり、様々な音があり、船底に感じるひんやりとした水の感触も、波の揺らぎもある。そういう「世界」に、私としては相当無防備に、五感を明け渡す。解き放つ。

「息苦しいような切ないような気持ち」は、そういう瞬間に、不意打ちのように襲ってくる。
懐かしい?
恋しい?
怖い?
帰りたい?
逃げたい?
あれこれ考えてみても、どんな語彙もしっくり馴染むことのない感覚。

もちろん、こういうカヤックも「あり」なのだと知ったのは、自力でではない。
そもそもカヤックに憧れたのは十代の半ば、野田知佑のエッセイでだ。テントやら着替えやら、言ってみれば「家財道具一式」をフネに積んで(ああ、カヤックをカタカナで「フネ」と呼ぶのは間違いなくこの人の影響だ)、川下りの旅に出る。お金なんかに頓着しない。魚を釣ったり河原の草を摘んだりして煮炊きしながら、気の向くまま、そのくせ命がけで旅をするのだ(そんで舳先には犬)。
でも当時は、というかずいぶん大人になるまで、ああいう「冒険」は男の人の特権なのだ、と思っていた。つくづく、ああ男に生まれたかった、と思ったりもした(というのはまあ、ただそれだけの理由ではないし、今でも一人きりの川下りは男の人の特権だと思ってしまう臆病さが私にはあるけれど)。

そういう意味で、梨木香歩氏の『水辺にて』というエッセイを読んだとき、愕然とした。
その昔、日常の必要性からつくられ、日常として使われ、日常の延長線上にあった「道具」は、ただ水辺に身を置くための、非力でもがんばれば何とか持ち運びできる「道具」でもあったのだ。

もしかして、私一人でも、カヤックって乗れるのかもしれない。
そう思うと、もう居てもたってもいられなくなった。
実際やってみると、梨木さんが一人で運べる限界、というボイジャーすら私には重すぎて運べず、それより軽いアリュートですら運べず、でもそこは「小分けして運べばいいじゃん」と開き直って、分割して背負う/引っ張る、という運搬法を編み出して今に至る。

今年は春先から機会を伺っていたにも関わらず、ずっとカヤックを出せずにいた。何と六月も後半になっての「2017年、初カヤック」である。
臆病者の私は、仕事の休みとお天気と自分の体調とがぜんぶ完璧に揃わなければ、カヤックを出せない。しかもその三項目が軽々とクリアされるような日でも、読みたい本が山積みとか翌日以降の夕食の作り置きをしなければとかいう、些細なことに負けたりする。

だから、多分、カヤックに乗れなければ死んでしまう、ということは、私にはない。
玄関らへんの板張りの、何と呼ぶのかよくわからないスペースで、一年の大半はただ埃をかぶってるだけのカヤック一式(愛艇アリュートと、初心者用のツーピースパドルと、「胸とかないんで普通のでいいです」と言ったにも関わらずショップの店員さんに押し切られて買った女性用のフローティングベストと、その他の装備もろもろ)。
それでも私は、条件さえ揃えば多少は早起きして、片道一時間半かけて車を運転して、小一時間かけてカヤックを組んで、汗だくで琵琶湖に漕ぎだす。

この日、十時前に出艇場所に着いて、辺りに誰もいないのを有難く思いながら(私は注目を浴びるのがこの上なく苦手だ)、いつもよりちょっと無造作に、いつもよりかなり巧く、アリュートをセットアップする。そして誰に気づかれることもなく、「湖上」に出る。

木陰の半浮きメインで、あとは北に向かってちょっと漕いだり、腰まで水に浸かって釣りしてるおじさんがいたので、沖を迂回するよりはと思っておじさんより岸側の浅瀬をポーテージしたり、動力船の余波でちゃぷちゃぷ遊んだり。
そのうち風が出てきて、ウインドサーフィンを始める人まで出て来たので、撤収の頃合いだな、と思って出艇場所まで戻ると、なんか道の駅のテラスに観光客ぽい人たちがずらっと座ってる。漕ぎ戻って岸につけるあいだの視線が、ずいぶん痛い(いや、別に視線に非難がこもってるわけはなく、むしろ興味&好奇心120%の視線なのだけど、私にはそれこそが苦痛なのだ)。
上陸して、カヤックをざっと拭く。
琵琶湖臭い。
しばらく陽ざらしにして干す(ほんとは風通しの良い日陰でやるべき)。
解体して骨組みをたたんでいると、写真を撮りに来たらしい年配の男性に「キャンプしたんか?」と声を掛けられる。
「いえー、キャンプじゃなくて、カヤックです」
カヤック、が通じない。
「折り畳み式の、フネ、です。こっちが骨組みで、こっちが外側の、皮、です」
 それをきっかけに、テラスから私の撤収を見守っていたらしき観光客の人たちから、ものすごく話しかけられて縮こまる。
「一人で来たんじゃないよね?」
あ、今日は一人です。
「持てる? 大丈夫?」
あ、大丈夫です。
「手伝ったろと思ってたら、もう片付いてるんやな」
あ、まあ、慣れてるんで。
等々。

SNSとかやってたら、意識して画像撮ったりするんだろうけど。

不意に、贅沢な遊びやなあー、と言われて、リアクションに困る。
その人が、どういう意味で「贅沢」と言ったのか、咄嗟には区分できない。
私としてはもちろん、この上なく贅沢な遊びだ。
でも、お金が掛かる、というわけじゃない。
目の前のこのおじさんが、本当の「贅沢」を知っていてそう言っているのか。
それとも、自前のフネや装備を持っていることや、公共の広場を勝手に占拠して解体作業をしていることを指してそう言っているのか。

普通なら疑うところではないのだけれど、おじさんの佇まいからは、どちらともつかない空気が漂って来ていた。
でもまあ、私はもともと、不意に人から話しかけられるとリアクションに困ってばかりいるので、深く考えるのは止して、曖昧にヘラヘラ笑ってごまかす。

どっちだっていい。
私は、私の幸せを、どんな形であれ「贅沢」だと思うことはしたくない。
ファルトボートなんて中古車に比べたらずっと安いし。
そもそも、値段のつけられるものじゃないし。
他の誰かが私のアリュートに乗ったって、私ほど幸せにはなれないという自信(?)もあるし。

でも、簡単なことなのだ。
幸福というのは、本当は、不幸と同じくらい近しくて、誰にでも軽々と手の届くものなのだ。
ただ、「降って湧きやすさ」という点で、不幸は幸福より非・恣意的なものだというだけ。

六月の琵琶湖は、深緑色。
風が出て波立つと、私の大好きな、ガラス細工みたいな質感を見せてくれる。
透き通ったクリスタルグラスじゃなくって、アールヌーヴォー風な重たい色ガラス。
パドルに藻が絡まったり、休憩スポットに死んだ鮒だか鯉だかが打ちあがってたりもするけれど、それは大した問題じゃない。

ひんやりと湛えられた水の質感を船底に感じながら湖の鼓動に合わせて揺られるとき、そこにあるのは非日常ではない(少なくとも私にとっては)。
それは、自分が生きている日々の本質を、あらためて感じるひとつの機会なのだ。
特別な祭典でなくても。
特別な贅沢でなくても。
そう思うと、わけのわからない切なさにも、多少は説明がつく(ように思う)。

だって、私は、たぶん私たちは、そしてたぶん他のあらゆる生きものたちは、幸福だから生きているわけではない。
生きることと向き合うには、ただ幸福感だけで済ませるわけにはいかない。
これはそういう体験なのだと、今日ふと思った。
強調文
難易度★☆☆☆☆の、ささやかで重要な教訓
えー、昨日UPしたばかりのチェスプロブレム、その後なんか急に解けちゃいました。
しかも、解けてみると別に何も不思議じゃない感じで。
こんな簡単なことに三日三晩も悩んでた私って、相当ヒマなのかしらん、と思ったり。

でも、言い訳をするなら、駒の配置が見事に「盤の下側」に偏っていて、視線がそこに集中してしまう。
一手めでどちらかのルークを垂直方向に動かしてどちらかのポーンをキングに取らせる、ということはすぐに思いつくのに、その先、「どうやっても次手でメイトには絶対ならない。だって相手はもういっこのポーンの陰に逃げ戻っちゃうし」となってしまう。

自分でも呆れるのだけど、このプロブレムを解こうと悪戦苦闘していたあいだ、私の脳味噌は「チェス盤に十字を引いて四分割した、その左上の四分の一」の「何の駒も置かれていない空間」を、まったく認識していなかった。

ああ、そうか。
「何もない空間」は、無意味に「何もない」わけじゃなかったのか。
何となく付近をうろうろしてる風な白キングの位置だって、キングのいない盤面はないから、というだけで適当にぽんと置かれてるわけじゃなかったのか。

ほんとに、何てことない単純なプロブレム。
普通にチェスをやる人なら、五秒くらいで解いちゃいそうな気さえする。
すべての駒が不可欠で、余計なものは一切ない、シンプルで綺麗なプロブレムだとは思うんです。
というか、プロブレムってどれも当たり前にそうなのかもしれないけど、この問題は駒の少なさが特に美しいと思う。
でも、難易度という点では、眠れなくなるほどのことはなかった。
と、無事に解けた途端にぞんざいな物言いをしてしまう。
(いや、実はこれ難問なんですよ、と誰かに言ってほしい気はするけど、そんなことは絶対ないと理解するくらいの基準は私にもある)

これまた現金なもので、ひとつ解けた途端に本格的なプロブレム集が欲しくなってしまう。
おいおい。
難易度★☆☆☆☆がひとつ解けたからって、何でも解けると思うなよ。
むしろ、今回のプロブレムから「視野を広く持つこと」とか「世の中に無意味なものなんてない」とかいうまともな教訓を得て、それを実生活に取り入れろよ。

いや、うん。
なるべくそうしようと、努力はしてるんだ。

※解答を載せないのは実は解けてないからではなく、なんかチェスプロブレム関連のサイトが全然そういうことをしてないからで、もしかしたらプロブレムの解答を安易に公開するのってマナー違反なのかな、と思ったからです。え? いや、もしかしたら、万が一にも、プロブレム好きの人がこのページを見ないとも限らないじゃないですか(限っていいような気がすごくする)。
ともあれ、本文がほぼ解答だと思って頂ければ幸いです。
京都南、パン屋ぐるぐるメドレー
「国を守るということは個人が武装することではなく、なるべく他人に銃の引き金を引かせないことなのである。」
(島田雅彦/『楽しいナショナリズム』)


メキシコ国境の壁はどんな風になるんだろうか、と、ずっと考えている。
そこに銃を持った警備兵が配置され、その監視を逃れて命がけで壁を越えようとする人が出るのだろうか。そしていつの日か、スプレー缶の落書きと共にその壁が壊され、小さなジップロックみたいなものに小分けされて土産物屋で売られるのだろうか。

そんなことを思いながらの年明け、そんで、はや2ヶ月。
新年の挨拶なんか今さらですが、一応、今年初めての更新なので、明けましておめでとうございます。ございました。
落ち込んだりも大してせず、私は元気です。
引用は、一応、今年の座右の銘。
「なるべく他人に銃の引き金を引かせないこと」。
身を守るために自分も銃を振りかざすなんて、大人の対応じゃないしね。

ところで、困ったことに、最近とあるチェス・プロブレムが頭から離れない。
自分で解くことは既にあきらめていて、でも正解が知りたくて眠れない。
チェスはそれに魅入られた人を滅ぼすって話も、まんざら嘘じゃなさそうだな、と思ってしまうくらいだ。

chessproblem.jpg


これが問題図。
白先2手詰。
チェス好きだけど下手なので、私の脳味噌は比較的初期段階で思考停止した。
(だって、私の目には「どう見ても無理!」としか映らない。ちなみに私にとってプロブレムの大半はそんな風にしか見えない)
ネットで検索しても正解にたどり着けず、ひとり呻いている。
誰か助けて。



そんで、本題(パン屋ぐるぐるメドレー)はこちら。
 ↓
Populism? No, it’s just a fuckin’ Egoism!
「彼等から、愛と憎しみと、快楽と苦痛と、希望と危惧とを取り去って見よ、彼等はもはやなに一つ感じないであろう。」
(アヴェ・プレヴォ/『マノン・レスコー』)


不安はあったし、不吉な予感のようなものすらあった。

アメリカ大統領選の話だ。

や、タイトルの英語は、正しいかどうか自信ありませんが(特に「a」)。

まさか、幾ら何でも、そうはならないだろうと思っていた。
アメリカ国民ってそこまで馬鹿なのか、と思った。
何だよその上から目線。
でも、考えてみれば、日本国民だってここまで馬鹿だ、と思った。
これは前回の国政選挙の話。
何だよその上から目線。

ていうか「国民」っていったい誰なんだ。
「国民」って、それはもちろん「私たち」のことだろう。
なら「私たち」が馬鹿なのか。
「私たち」がそれを選んだのか。
いや、少なくとも、「私たち」は(ちょっとは馬鹿かもしれないけど)選んでない。

ということは、この「私たち」と、その「私たち」は違うのだ。
そして、その「私たち」のほうが、この「私たち」より多数派なのだ。

トランプ支持者の多さを目の当たりにして、現実に排斥される側にいる人たちが感じている恐怖を思うと、息が詰まる。排斥されない側の人の中にも、不安や恐怖、理性的な憂慮や危惧を感じている人は多い。所詮アメリカの話だし他人事じゃないか、と言われるかもしれないけれど、実はぜんぜん他人事ではないし、そもそも私はまったく知らない誰かの身に起こるあらゆる悲喜劇を他人事として捉えられない(たぶん特異な)体質なので、自己の利益を確保するために他者を徹底して踏みつけることの、「ざらっ」としてなおかつ「ぬめっ」とした、残酷な利己主義の気配に総毛立ってしまう。

選挙結果を見たあと、小一時間、現実逃避していた。
ドイツの音楽フェスの、ザ・ストライプスのステージを、you tube で観ていた。
これは本題とはまったく関係なくて、思いがけなく共通する主題が見つかったりはしないので、読み飛ばしてもらって全然いい。です。
オリジナル(とされている、というのも私はストライプスのオリジナル楽曲にあまり一貫性を見いだせないので、ある程度ゴーストライターがいるんじゃないかと勝手に勘ぐっている)曲はほとんどテンポが速すぎて、ロス歌うの大変そうだなあ、と思ったり、みんな成長して衣装が各自の好みにバラバラになってきたな、とか、前はエヴァンの顔(とふわふわエンジェルヘア)がいちばん好きだったけど最近ピートが雰囲気いいな(ぽっちゃりおっとりなイメージだったけど何気に演奏いちばん巧いし)、とか、ジョシュ調子に乗り過ぎて浮いてなきゃいいけど、とか、まあでも全体的にずいぶん楽曲の解釈に遊びというか余裕が出て来て、ライヴパフォーマンスがこなれて俄然カッコよくなってるな、とか、あれこれ思いながら観ていて、それでもやっぱり、意識は現実に引き戻される。

現実に戻って。
ポピュリズムの台頭が取りざたされていて、私もそれを否定する気はない。
でも、ここまで来ると、それはもう「ポピュリズム」とさえ呼べないのじゃないか、と思う。
これじゃもう、はっきり、身も蓋もなく「エゴイズム」だろう、と。

選挙結果を知らせるインターネット上のニュースで、トランプ勝利の報に悲嘆のあまり泣き崩れる女性の画像を見た。今回の選挙が、どれだけ感情論で動いていたかがよく解る(私の印象では一方的にトランプ陣営が煽ったものだ)。けれど私には、自国の大統領選の結果に涙する彼女の「感情」を、冷めた目で見ることはできない。

私とて、あまりにも狭量な「大国」の判断を目の当たりにして、最初は絶望しか感じなかったのだ。
日本の現政権とかち合ってしまったことが、またその絶望に追い打ちをかける。
在日米軍撤退(沖縄から基地がなくなるのは喜ばしいのだけれど)、となると、日本は再軍備、核武装、といった「刃物を振りかざして互いを威嚇し合う」外交に喜び勇んで邁進する、と、悲観的な私は思う。

いっそ、刃物を捨て両手を上げて「私は無力です。こんな私を攻撃したら、国際社会があなたを人でなしと罵るのは確実ですよ」と、人間の良心に訴えることはできないのか、と、「抑止力」という事実上の「脅し」に対して私は常々思っていたのだけれど、今そんなことを言っても「戦いもせず腹を見せて降伏するのか」なんて責められそうだ。

そろそろ現実逃避に戻ろう。
何だか、耐え難くなってきた。

明日がどんな一日になるのかはまださっぱり解らないけれど、せめて私は理性的に落ち込み、理性的に悲しみ、理性的に泣き、理性的に怒ろう。
私がそんなふうに落ち込み、悲しみ、泣き、怒っている理由は、大多数の「私たち」には理解されないだろうし、大多数の「私たち」は大多数であるだけで無条件に力を持つものだから、自分がそれに抗わなければならない場面に直面したとき、今の私にその力があるかどうかは覚束ない。
でも、どう転んでも、そうなったらやってみるしかない、と思う。

どこまでも陳腐なことに、私の願いはひとつだけなのだ。
地には平和を、人には愛を。
梨木香歩の『僕は、そして僕たちはどう生きるか』を再読した直後だけに、ことさら。
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